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ボナパルト家を取り巻く女性たち - ジョゼフィーヌ編《終》フランス皇后へ、そして2度目の離婚

◆これまでのお話

2人の子供を抱えたまま夫と死別、ナポレオンと再婚したジョゼフィーヌ。

しかし生まれながらのフリーダムな貞操観念で、結婚後すぐに浮気をします。

初めはジョゼフィーヌ一筋だったナポレオンも、妻の浮気を決定的に知るや大激怒、いよいよ離婚を言い渡されます。

ここからの続きです。

《これまでの話》

第1話: 出生地の謎と最初の結婚
第2話: 泥沼離婚、修道院へ
第3話: 革命、そして投獄
第4話: 新たな愛人バラス
第5話: ナポレオンとの出会い
第6話: ナポレオンとの結婚
第7話: 離婚の危機

◆子はかすがい

ここで登場したのが、ジョゼフィーヌと前夫との子供、ウジェーヌ(18歳)とオルタンス(16歳)です。

(思い出してもらう為もう1度肖像画。
左: ウジェーヌ 右: オルタンス)



2人とも大変ナポレオンを慕っていましたので、泣きながら別れないでと頼みます。

ナポレオンはウジェーヌに
「きみはお母さんとは無関係だ。いつまでも私の息子だ。」
と言っても、彼はきっぱり
「いいえ、あなたが母と別れるなら私は母とこの悲しい運命を分かちます」
と返したそう。

結局この2人のおかげで、"初めの" 離婚危機は免れるのでした。

この後ナポレオンはブリュメールのクーデターを起こして、不人気だった政府を打倒。

そして、マルメゾン城購入や浪費により作られたジョゼフィーヌの借金を全て清算します。

クーデターを起こすナポレオン(中央)


こうなっては、いよいよジョゼフィーヌは夫に頭が上がりません。
そして彼女は愛人だったイッポリト・シャルルと訣別しました。


◆皇后に即位

いっぽう勢いづいたナポレオンは、1804年にフランス皇帝へと上り詰めます。
ジョゼフィーヌは、フランス皇后となりました。

ナポレオン一世の戴冠式と
皇妃ジョゼフィーヌの戴冠


このジョゼフィーヌの姿は、「皇后の姿は若いほど良い」というナポレオンの意向により、画家の19歳の娘をモデルとして描かれました。当時41歳だった本人よりかなり若々しく修正されていると考えて良いと思います。


◆離婚、その後

皇帝・皇后となれば気になる後継ぎ問題。

ジョゼフィーヌは2度の出産経験がありましたから、ナポレオンも初めは自分に不妊の原因があるのではと心配したそうです。

しかし彼は浮気相手との間に子どもが出来た事もあり、ついにジョゼフィーヌと離婚します。
時は1810年、ジョゼフィーヌは46歳になっていました。

ナポレオンに離婚を言い渡され失神するジョゼフィーヌ
ナポレオンとの離婚に同意するジョゼフィーヌの手紙
ジョゼフィーヌとナポレオンの離婚を描いた絵


彼女は離婚後もマルメゾン城に住むことを許され、ナヴァール女公皇后殿下という称号を与えられました。

そして終生ナポレオンとは良き話し相手でありました。


さてナポレオンはこの後名門ハプスブルク家から後妻を迎え、男の子も産まれます。


皇帝の地位を守ろうとしたら、愛しているけれども下級貴族出身で子供を産めなかったジョゼフィーヌとは別れざるを得なかったのかもしれませんね。

ナポレオンの後妻マリー・ルイーズと
子ナポレオン2世

一方のジョゼフィーヌ。

彼女は以前からマルメゾン城で植物を集めることに熱心で、広大な温室やバラ園を作っていました。

離婚後はこれらの維持や、芸術品のコレクションに勤しみました。

お抱えのベルギー人画家ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテに描かせた庭園のバラの博物画


そして2人の離婚から4年後の、1814年春。
ナポレオンが倒されエルバ島へ流刑、フランス帝国は崩壊します

…となると 元皇后であるジョゼフィーヌの身分も危ぶまれますが、新しい君主ルイ18世は、ジョゼフィーヌと良き関係を保ちました。

更に、ライバル国・ロシア皇帝アレクサンドル1世は、フランスとの平和条約に基づきジョゼフィーヌを支援しました。 

余談ですが、当時のロシア社交界ではフランス語が話せるのは当たり前。
アレクサンドル1世のフランス語はコルシカ訛りのナポレオンより上手かったと言います。

そこへもってきてジョゼフィーヌも社交上手でしたから、打ち解けるのに時間はかからなかったのでしょう。
ロシア皇帝アレクサンドル1世と面会する
ジョゼフィーヌ。
後列左から: アレクサンドル1世、長男ウジェーヌ、長女オルタンス、中央がジョゼフィーヌ、オルタンス次男(長男は4歳で死去)、オルタンス三男(のちのナポレオン3世)


しかし帝国崩壊直後、ジョゼフィーヌは体調を崩し倒れます。

マルメゾンの庭をアレクサンドル1世と歩きながら、エルバ島にいるナポレオンに会わせて欲しいという話をしていた矢先だったそうです。

しかしその願いは叶わぬまま、間もなく肺炎で死去します。50歳でした。

死の床では、「ボナパルト…」と別れた夫の名前を呼んでいたそうです。

ジョゼフィーヌの死をエルバ島で知らされたナポレオンは、ショックのあまり部屋に閉じこもり、数日間誰とも会わなかったそうです。


ナポレオンはその7年後に51歳で死去しますが、彼は今際の言葉でジョゼフィーヌの名前を呼んでいたとか。

◆おわりに

恋多き女で、数えきれないほどの男性を振り回してきたジョゼフィーヌ。

マルメゾン城でのジョゼフィーヌ(1805年)


しかしながら、2人の別れた夫の事を死ぬまで気にかけるという、情に厚い一面もありました。
(何なら、ナポレオンと後妻の間に男児が誕生した際、後妻にも喜びの手紙を送っています)

そのせいか、彼女もまた生涯を通じて誰かに支えられながら生きてきた印象です。

皇后時代のジョゼフィーヌ(1808年)


過去の事を引きずる事なく、しなやかで大らかで、したたかで。
「悪女」というよりは、良くも悪くも「女らしく」生きた人だなと思いました。

しかし、記事を書いてる方は疲れましたけどね。
「また男作るんか!」って(笑)

※多すぎてキリがなかったので、省いた男性もいます

長い話にお付き合い下さり、ありがとうございました!

晩年のジョゼフィーヌ(1814年)

おまけ

宝石大好きジョゼフィーヌは、高級ジュエリーブランド「ショーメ」の最も古い上顧客でした。

そんなショーメからリリースされた、ジョゼフィーヌコレクションのご紹介です。



参考

ナポレオンとジョゼフィーヌ (中公文庫) 

NAPOLEON.org

Wikipedia

Russia Beyond

Shannon Selin

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