ボナパルト家を取り巻く女性たち - ジョゼフィーヌ編《3》革命、そして投獄
◆これまでのお話
のちに皇帝ナポレオンの妃となるジョゼフィーヌは、元々カリブ海にあるフランス領マルティニーク島で育ちました。
結婚を機にパリに出てきましたが、夫とは不仲のため離婚。
一男一女を抱えるシングルマザーとなります。
そして離婚から3年後、突如娘を連れてフランス本土からマルティニーク島に戻ります。
(息子はパリの夫の元にいました)
マルティニーク島で何をするでもなく、持ち前の奔放さと浪費癖を発揮していたある日、本土で革命が起きたことを知ります。
その革命というのが、世界史の教科書にも出てくるフランス革命なのでした。
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◆革命を受けて
さてパリでは革命が起こり、国民議会によって「人権宣言」が採択されます。
ここに含まれるのが、
「人間は生まれながらにして自由で、権利において平等である」
という17条。
そして王政は廃止、長年「国は王の物」とされた考え方が崩れたのでした。
◇
この革命を受けて、マルティニーク島でも暴動が起こります。
本土から遠く離れた島国なのに何故?と思うのですが、実はマルティニーク島には奴隷問題があったのです。
後から入植してきた白人が、現地の黒人を搾取していたのですね。
全ての人間が平等なら自分達も、と先住民が蜂起した訳です。
◇
ジョゼフィーヌは、このマルティニーク島の混乱に危機感を感じ、6歳の娘を連れて海軍の愛人が乗っていた船に逃げ込みます。
そして53日の航海を経て、フランス南部のトゥーロンに降り立つのでした。
通信網も交通網も 現在ほど発達していなかった時代のこと。
既に革命開始から1年3ヶ月経った1790年12月になっていました。
◇
フランスに着いたジョゼフィーヌは、パリにある前夫の親類の邸宅敷地内に居を構えます。
そこから、修道院で身につけた社交術で 交友関係を広げていくのでした。
(修道院の話は第二話にて)
◆元夫のその後
ところで、この後ジョゼフィーヌと 離婚した元夫アレクサンドルの人生が再度交わることになります。
そこで、この頃の彼の動向を見てみましょう。
◇
アレクサンドルの家(ボアルネ家)は貴族でしたが、新興貴族――早い話がポッと出貴族の部類だった為、過去にヴェルサイユ宮殿への出入りを断られていました。
この事が 野心家アレクサンドルの心に火をつけ、ルイ16世(国王)めこんちきしょうとなります。
彼は元々ルイ16世の軍隊に所属していましたが、革命が起こるや、反王政、つまり革命派に転身します。
◇
さてこの革命派の中でも
「富裕層にのみ権利を与えよう」
(フイヤン派)
「いやいや全ての身分を平等にしよう」
(ジャコバン派)
で意見が分かれるようになります。
これまで特権階級だった貴族や聖職者達は、国王を排除した後も 極力自分達の権力を維持したかったのですね。
アレクサンドルは貴族階級ですから「富裕層のみの権利」を訴える保守派(フイヤン派)かと思いきや、更なる改革を推進するジャコバン派として活動します。
理由はただ一つ。
ヴェルサイユ出禁の憂き目を見て、王党派に恨みを持っていたからです。
(フイヤン派は、身分の高い人達で構成された、ある程度王党派に近い一派だった為 俺は徹底的に王党派と逆を行くぞ!という事です)
そして彼はジャコバン派の中で存在感を強めます。
立法議会の議長に任命され、軍事面ではフランス軍が制圧したドイツ・マインツの防衛軍の司令官に任命されました。
しかし、アレクサンドルはこのマインツで貴婦人を口説いて遊び呆けていたため、1793年7月 プロイセン軍に敗北、マインツを奪還されてしてしまいます。
この敗北が、後に彼をギロチン台へと導くのです…。
◆別れても好きな人?
さて当時のパリは恐怖政治の真っ只中。
ルイ16世も王妃マリー・アントワネットもギロチンにかけられ、それに続いて多くの人々がろくに審理もなされないまま断頭台の露と消えていました。
アレクサンドルも、例の敗北から8ヶ月あまりで
「マインツを取られた罪で逮捕」となります。
そして牢獄に放り込まれるのでした。
◇
さてこの逮捕に驚いたのが、他でもない元妻・ジョゼフィーヌです。
第2話で泥沼離婚をしておきながら、自身の人脈を活かしてアレクサンドルを助け出そうとしました。
しかし残念な事に、結局 保安委員会に目をつけられ、ジョゼフィーヌまで逮捕されてしまうのでした。
続きます。
次回、元夫に牢獄で再会しますが…↓
ちょっと休憩
話がギスギスしているので、美しいバラの画像でひと休み。
日本で会えるジョゼフィーヌです。
参考
名画で読み解く ブルボン王朝 12の物語 (光文社新書)
ナポレオンとジョゼフィーヌ (中公文庫)