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まちづくりとは、かけがえのない心のふるさとをつくること。時とともに変化しても、個性ある居心地の良いまちは人々の心の中に残り続ける。

一級建築士で有限会社「スタヂオ・カタリスト」の代表取締役である松原永季(まつばらえいき)さん。「TeamZoo・いるか設計集団(以下、いるか設計集団)」の一員として神戸で就職した3年後に阪神・淡路大震災に被災。まちづくりコンサルタントとして、神戸の復興まちづくりに携わるようになったことをきっかけに、まちの個性を存分に活かしつつ防災対策もできるまちづくりを目指してきた。現在は駒ヶ林を拠点に活動する松原さんに、震災での経験がもたらしたもの、そして、人々の“記憶のよすが”になるまちづくりについてお話を聞いた。

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一瞬にして壊された神戸の人の心のふるさと。

「神戸で震災が起こると思っていましたか?」
この問いに対し、松原さんは「神戸で震災が起こるなんてまったく想像していませんでした。」と答えました。大学院時代を東京で過ごしたのち、神戸の会社に就職した松原さん。学生時代には東京で小さめの地震が頻発していたこともあり、「関東では大地震が起こるかもしれない」とは思っていたそうですが、まさか神戸で地震が起きるとは考えたこともなかったようです。
1月17日の午前5時46分、中央区のマンションで暮らしていた松原さんは、箱の中に入れられて激しく振られているかのような、経験したこともない激震により目を覚ましました。幸いにもマンションが崩れることは無かったそうですが、本棚や食器棚は倒れ散乱していたそうです。震災直後、かろうじて繋がっていた連絡手段の電話で京都にいる家族と東京にいる恩師に無事を知らせることが出来ました。しかし、それ以降電話は繋がらなくなってしまいました。
その後すぐ、当時勤めていた「いるか設計集団」の事務所(中央区海岸通)に行ったところ、事務所は倒壊していないことを確認します。しかし、家へ帰る道中で阪神高速が倒れていたり、フラワーロード沿にあったビルが傾いていたりするのを見て、まちの壊滅状態に衝撃を受けたそうです。そして松原さんが傾きに驚いた数日後には、このビルは道路に横たわるように倒れました。

被災者と同じ目線で復興に携わりたい。

震災後、元々事務所のあった神戸に加えて、大阪に仮拠点を構えた「いるか設計集団」のもとで仕事を続けていた松原さんですが、「神戸に留まりたかった」のだそうです。「震災後、被災した建物の修復作業も手がけていた『いるか設計集団』の一員として、神戸に身を置いて、まちに住む人の声を聞きながら、復興に携わりたいというのが本心でした。」と、松原さん。しかし、神戸で日常生活を送るにはガスも水道も止まっているという厳しい現実がありました。
松原さんが大阪で働いていた数ヶ月の間に、神戸では専門家も交えて今後復興体制をどうしていくかという話が整理されていきました。そして松原さんは神戸に戻ってきた後、「いるか設計集団」とご縁のあった住吉地区の復興に携わることになりました。そして、住吉での復興事業がひと段落した後、中央区の旧吾妻小学校(現・コミスタこうべ)の一隅に「有限会社スタヂオ・カタリスト(以下、スタヂオ・カタリスト)」の事務所を構えることになりました。

まちの個性を生かしつつ、防災対策もできるまちをめざして

現在、「スタヂオ・カタリスト」は駒ヶ林を拠点に活動しています。神戸市長田区の南に位置する駒ヶ林エリアは神戸の中心都市三宮から地下鉄海岸線で約15分の距離にあり、平安時代から続く漁村集落の名残を残す、駒ヶ林独特の路地文化を感じられるまちです。

松原さんはなぜ、神戸の地域の中でも駒ヶ林を拠点として選ばれたのでしょうか。「建築設計の仕事を通して、震災が起こる以前から神戸には2つの面があると感じていました。ひとつは居留地や阪神間の山手に代表されるような近代以降に形成されたまち、もうひとつは古い建物や昔からの文化が残り、地域のコミュニティがきちんと継続されている駒ヶ林のようなまち。相反する2つの面が共存する神戸で活動するなかで、均質な空間を基本的な原理とする近代建築の考え方も尊重しつつも、各地域の個性を建築に反映させていくまちづくりをしたいという想いがあったそうです。また、まちづくりコンサルタントとして第三者的にまちに関わるだけではなく、自分自身が地域の当事者になって地域住民の方と話し合いを重ねながらまちを作っていきたいと思うようになりました。駒ヶ林なら自分の想いを実現できると思ったんです。」
この想いの背景には、阪神・淡路大震災を経験された松原さんならではの視点があります。復興まちづくりでは、公費解体を行い、被災の影響が大きな地区では、崩れてしまった場所を全て更地にして、一から区画整理や再開発を実施して急速にまちを作るという方法が主流でした。しかし松原さんは「そのまち独自の歴史や文化、コミュニティが維持されながらゆっくりと変化していく“修復型”のまちづくりの重要性を実感した」のだと言います。
駒ヶ林にある松原さんの事務所は狭い路地を進んだ先にあります。周辺を歩いてみると、きれいに整備された空き地のような場所を数か所見つけることが出来ました。これは、松原さんが神戸市とともに、先進的に取り組んできた“防災空地”というスペースです。防災空地とは防災性や住環境に様々な課題を抱える密集市街地において、火災等の延焼を防止し、避難や救助活動をするスペースを確保する目的で整備された空き地のこと。平常時は広場として地域住民が活用できる場所になっています。震災後、多くの建物が被災して、撤去された結果、多くの空き地がまちの中に生まれ、誰がどのように管理し活用していくのかという地域課題が生じていました。また、密集市街地では、新しく道を通したりするにはコストがかかり、そもそも建替え困難な敷地もあり、また道幅の拡幅に伴い、敷地が狭いため建替えがさらに難しくなったりすることがあります。これらを踏まえた上で、木造建築密集地域における防災対策という従来からの地域課題にアプローチできる方法を模索しなければなりませんでした。そこで、火災が発生したときに道を辿って逃げるという発想だけではなく、空き地を辿って逃げるという意味合いでも防災空地を活用する、という考え方も組み立てています。仮に現存する木造建築を耐震性の高い建物に建替え、空き地をそのままにしておいたとしても、延焼を防ぐという観点では評価できるかもしれません。しかし、この方法では風情ある木造建築や路地が無くなり、殺風景な空き地が広がるようになり、古き良き駒ヶ林独自のまち文化が失われてしまいます。また、ただの空き地のままでは、良いスペース活用法とは言えません。「木造建築や路地文化というまちのアイデンティティを残しつつ、空き地も地域の人にとって居心地の良い場所として機能させる。様々な方法で、防災性を高めつつまちの記憶も残していくということ。これが大切だと僕は思います。」と、松原さんが大事にしている考え方を教えてくださいました。

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震災を経験していなくても、“自分ごと”として防災を考えることはできる。

私達「1.17→」のメンバーは、神戸に住んでいる、あるいは神戸の大学に通っているなど神戸に関わりを持つ人達ではありますが、実際に震災を経験している訳ではありません。しかし、阪神・淡路大震災の記憶を私たち世代が継承しないことで途絶えさせてはいけないという強い危機意識を持っています。
しかし、私達に実際何ができるのだろうか? この思いを、松原さんに率直にお伝えしました。すると松原さんは、「震災経験者の話を自ら聞くことが大切だと思います。家族や知り合い、これから出会う会社の先輩など、身近な人に話を聞くことで、それぞれが色んな記憶を話してくれる。直接的に防災に繋がるかは分からないけれど、話を聞くことだけでも価値があると思いますよ。」とお話してくださいました。
「私達が震災を継承していきたいという想いや防災の重要性を訴えかけたいという想いは、神戸の人に受け入れられるのか。」そんな不安を抱いていた私にとって背中を押してくださるようなメッセージでした。

普段何気なく見ている景色は、心のふるさと。

私は20年間暮らし続けている神戸というまちが大好きです。神戸の魅力は、洗練された異国情緒あふれる都市部から少し離れると豊かな海や山があり、そして駒ヶ林のような下町文化が今もなお残っているという様々な面を併せ持つ点にあると思います。私自身、小中高とそれぞれ下町で過ごしてきたので、「通学路にあった駄菓子屋のおばちゃん元気かなぁ」などと、今でも思い出すときがあります。そして、懐かしい思い出のなかには必ずまちの雰囲気や情景を形作る“建物”があります。特に、高校の通学路には細い路地や昔から続く商店がたくさんあり、「この道通りにくいなあ」とか「このお店リフォームしないのかなあ」など、勝手ながら感じていました。しかし、高校卒業後、久しぶりに当時と変わらない通学路を歩くと、その当時の思い出や感情が沸々と頭の中に浮かび上がり、どこかホッとした気持ちになりました。
「建築は記憶の器である。建築物というのは、毎日いろんな人の目に入り、物理的な大きさも相まって人々の記憶に残る物である。そして、自分の自己同一性、つまりアイデンティティというのは自分の経験や記憶によって担保されるものであるから、建築物は“記憶のよすが”になることができる。」
この言葉は、松原さんが建築の師匠から受け継ぎ、今も大切にされている考え方です。松原さんは、“記憶の器”として人々の心の拠り所となるようなまちを目指して、日々活動されています。

震災による心の傷には、自分にとって大切な家族や友人を失うという計り知れない悲しみに加えて、無意識のうちに自分が心のよりどころとしていた思い出の詰まった“まち”の姿を失うという悲しみもあると思います。私はこの活動を通じて、防災の知識を身につけて、また身の回りの人に伝えて、「知識があれば防げる被害」というものをなくしていきたいと考えています。そして、それがたとえ小さなことだったとしても、一人ひとりが防災意識を日頃から持つことで、まち全体の防災力は向上することでしょう。

(文:鎌田 春風)

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