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心療内科

 5月から心療内科に通っている。強迫性障害と思われるような症状に悩まされ、生活に支障をきたしていたからだ。もともと心配性ではあったが、いつのまにか度が過ぎていた。何か汚いものを踏んでしまったのではないかと不安になり、自分が来た道を振り返る。時には戻って確認する。電子機器に水が付くのが怖くて、手を洗った後は指先から肩まで拭いている。シンクに当たって飛び散った水滴のことも考え、念のため服の前側も拭く。外出時に窓を閉めて鍵をかけたか何回も確認する。その他いろいろ。
 心配になるのもばかばかしく、その心配を放っておけないこともばかばかしい。確認に時間がとられて、一日がどんどん手元から離れていくことは怖かった。一生、こんなことに時間を取られるのかと思うと、途方に暮れた。別に生きていなくてもいいかも、とか思った。
 心療内科は、その時に一番早く予約が取れたところを受診した。困りごとを一通り話すと、たしかに強迫性障害の可能性が高いと告げられた。
 その時は、上の症状に加えて、一日の中で気分が落ち込む時間が長いこと、憂鬱な気持ちがなかなか消えないことにも悩まされていたので、医師に話した。
 医師からは、強迫性障害もうつ病も根っこは同じで、脳内のある物質の多寡が関係している云々と言われた。私が抱えていた憂鬱さは、靄のような霞のようなうっすらとしたもので、決して強烈なものではなかったから、うつ病という単語が出ることは意外だった。
 血液検査の後、私の精神的不調は体質的なものだと言われた。そして、抗不安薬と抗うつ薬の処方箋をもらった。
 今思うと、ここで、強迫性障害が、うつ病が改善すれば自然と治るものとされたこともよくわからなかった。
 薬を飲み始めて3か月近く経った。私は元気になったのだろうか。元通りになったのだろうか。
 わからない。そもそも、元通りがわからない。いつからか、ずっとうっすらと悲しいと思って生きてきた。そして、そんな私は、友人や恋人など親密な関係の個人によって救われることを夢見てきた。期待してきた。希望にしてきた。
 私の憂鬱は、悲しみは、脳内物質のいたずらなのだろうか。私には、いや人間には、心なんてものはなくて、脳の独り舞台なのだろうか。
 2週間に1度の診察は、笑ってしまうくらいあっけない。本来の元気を10割としたら、今は何割くらいかと聞かれ、私は実感のないまま、自販機でジュースを買うような軽さで、6割くらいですかねえ、とか7割くらいですねえと気分で答えている。
 私は、セロトニンの働きを活発にするとかいうお薬によって、「本来の」元気を取り戻すのだろうか。私に処方されるべきは、「愛」ではないのか。せめて、規則正しい生活が送れているかくらい聞いてくれよ、先生。
 もう、うつ病だと言われたからうつ病の薬を飲んでいるのか、うつ病の薬を飲んでいるから自分はうつ病だと思い込むようになっているのか、分からない。
 私はただ、人間関係が希薄な、落ち込みがちな、ぼんやりしがちな、打たれ弱い、少し変な人ではないのか。
 この前の診察で、今の薬のままでよくならなかったら、別の薬を追加すると言われた。おいおい、いい加減にしてくれよと思った。どんだけ、脳にいたずらする気だ、てめえ、と思った。
 今まで恋人がいたことないからこそ、人を好きになったら何もかも変わるのだと思っている。救われるのだ、と。今日も世の中では、好きとか愛といったよくわからないものが、人間ならば漏れなく関わりがあるものとして、飛び交っている。それらに覆いつくされている。苦しい。
 僕は何年先まで生きているのかわからないけれど、いなくなっちゃう間際の僕もおんなじことで苦しがっていますか?
 

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