第22回・どんぶらこ、どんぶらこ
私はよく夢を見る。
寝ている間に見る方の夢の話だ。
「全く見ない」「見るけど覚えていない」といった方々も多いようだが、私は比較的毎日見ているし、かなりの確率で細かい部分まで覚えていることが多い。
以前は友人に「今日はこんな夢を見た」など、いちいち報告をすることも多々あったが、よくよく考えてみると、そんなどうでもよいことを聞かされて、なんと応えればいいのだろう?
幸いにもその友人は、未だに友人でいてくれているから、相当な変わり者か、相当に私のことを想ってくれているのか、それとも聞き流すのがスペシャル級に上手い、『私の相手』という競技のプロなのかもしれない。
私も「なんだか悪いことをしてしまったなぁ」と反省はしているので、最近は『夢での話』を口にするのは、意識して控えるようにしているのだが、たまに我慢が出来なくなったり、どうしても話したくなるくらい凄い夢を見た時は、Twitterに放流したりしている。
Twitterはまるでガンジス川のようだ。
全てを受け止めてくれる、有難い存在だ。
ヒンドゥー教では、火葬し灰となった遺骨をガンジス川に流すことは、死者に対する最大の敬意とされるそうだ。
また信仰から、ガンジス川で沐浴をする信者も多いそうだが、聖なる川といえども、衛生面は悪いので、免疫のない人間が入水したり飲用してしまったりすると、感染症にかかってしまう。
生活用水も下水もごちゃ混ぜで、死体だって流れてくる。
そういった意味では、ガンジス川はやはりTwitterと似ているかもしれない。
日々の思いつきや報告、称賛の言葉や愚痴や暴言、みんながどうでもいいことを少しづつ放流し、こちらも生活用水や下水がごちゃ混ぜな状況だ。
それこそ、免疫のない人間が溺れてしまったら、病んでしまうかもしれないし、最悪は色々な意味で人生が終わり、死体となって流れることになるかもしれない。
流れが急な時もあれば、穏やかな時もあるだろう。
流れていくタイムラインには、大勢の『生と死』『陰と陽』『明と暗』が混在し、いずれは埋もれていくかのように見えるが、確実にそこには存在し続ける。
『夢での話』だけではないが、私がTwitterに言葉たちを放流する時は、やはり最大の敬意を払って、そしてまた覚悟と責任を持って、丁寧にそっとタイムラインに浮かべ解き放ち、それを見送り成仏を願う。
乱暴に捨てるのではなく、雑に垂れ流すのでもなく、多くの人間が意識して使えば、Twitterの衛生面はだいぶ浄化され、本当にガンジス川のような聖なる川になれるかもしれない。
2つは似ているが、大きく違うところはそこだと思う。
強い信仰によって込められた想い、汚れの質は次元が違うのだろう。