第15回・私たちがやりました
これは何が悪いといった話ではない。
ただ、人の恐ろしさを感じて欲しい話だ。
ある場面を切り取ったこと、例えばネットでの発言だったり、テレビの中の世界だったり。
それを何の想像もせず、素直に受け取り過ぎた者たちが、対象者を一斉に取り囲み、目には見えない深い傷を負わせる。
何度でも何度でも。
その傷の上に、更に傷を上書きし、元のカタチがどうだったのかなんて、わからないくらいに心を砕く。
勘違いされやすいが、人間なんてそもそも万能ではないし、そんなに強い生き物ではない。
何の根拠も無いが、私はそう思っている。
そういう生き物だと。
脆く儚く弱いからこそ、時には寂しくも感じ、時には狂ったように恐れる。
だからこそ、攻撃された方は簡単に壊れてしまうし、攻撃する方は考えることを止め、その時は目も失ってしまうようだ。
怒りだったり恐怖だったり、目には見えない人間を狂わす感情は、厄介なことにウィルスのように感染し、別の波長の者にまで浸透する。
初めは小さな波紋のようだったそれは、次第に大きなうねりとなり、最後は弱った者を飲み込み、暗い暗い闇へと沈める。
ある日、誰かが自ら命を絶った。
深く深く沈んでしまったのだろう。
そこでは息をすることさえ困難で苦しかったのだと思う。
だから息をするのを止めてしまった。
そうなると、今度はその救われなかった孤独に、同情する者が現れる。
どこから湧き出てきたのかは知らないが、「よくそんなことを出来たものだ」「可哀想だ」と、犯人を探し始めるのが大抵なのだが、私はそれが不思議で仕方ない。
うねりに足を取られ、なす術もなく飲み込まれていく状況を前に、誰か手を差し伸べただろうか?
波の届かぬ高台で、見て見ぬ振りはしていなかっただろうか?
その時は、気付いていなかったのかもしれないが、あれだけ大勢の優しさがあることを知っていたら、結末は変わっていたのかもしれない。
それは私を含めた話だ。
差別の思想というものは存在する。
人種や宗教や性や貧富。
もっともっと沢山。
正義と悪の間にもその境は作られ、それらが原因で、誰かが傷付け、誰かが傷付く。
そして、その度に優しい味方は遅れてやって来る。
原因や犯人の特定、それはとても大事なことだが、事件後の話が、いつでも被害者目線で語られることには危機感を感じる。
誰も被害者にはなりたくない。
それは理解出来るが、なりうるのは被害者だけではない。
むしろ『いつ自分は加害者になってしまうだろう』と考え、それを恐れている方が、弱っている者に手を差し伸べることが出来るかもしれない。
人間は脆く儚く弱いからこそ、傷付けるより傷付くことを恐れる。
目をつぶるのは眠る時だけでいい。
しっかりと見るべきだ、その傷口を。