新差別論
おっと、何処かの活動家から声を上げられそうな怪しいタイトルですがまぁ、批判があるならば最後まで見て頂ければ幸いだと言っておきたい。
皆様は、差別についてどう思いますでしょうか?
勿論大半の方が差別はあってはならない物だと云うでしょう。
然し私は声を大にして唱えたい。差別、いや…区別に大賛成であると。
そもそも差別とは何なのか。
簡単に言えば特定の障碍、国籍、地位等を冷遇したり、批判したりすることわかりやすく言うならば、所謂「決めつけ」であろう。○○だからどうせできない、○○はうそつきだ、等々である。
先に言っておくが私は前述の決めつけや冷遇はあってはならないと思う。
例えば障害者や多国籍の人を差別してはならないが区別しなければならないといえる。区別と差別は全く以って別物だ。
そこで私は以降この区別を新しい形のより良い意味での差別ということで
「新差別論」として語っていこうと思う。
新差別論
まず、なぜ新差別論が必要かを説明しよう。
私は、今まで障害を持っている人たちや外国籍の人たちと関わりを持つ機会がとても多く、その人たちは例外なく心無き者共の冷酷な差別を受けていたその中でのエピソードを一つ語る。
私が小学生の頃だった。私の友人で会った山田君(仮名)は在日中国人であり日本語があまり上手くなかった。
彼はとても明るく輪に溶け込もうと盛んに遊びに入ったり私のほかの友人とも仲良くしようとしていた。
そんなある日一部の悪餓鬼によって日本語が不得意であることをバカにするような発言をしていた事があった。
当然私も怒りを覚えたがそれ以上に当時の担任であったヒステリック教師、ヒス子先生(仮名)が狂ったようにその餓鬼共を叱り続けた。
HRも終了し下校時刻が過ぎても続くその説教に、残されていたすべての児童はさぞかし恐怖しただろうと思う。
しかし、そんなことも理解せず高らかに反差別を叫び続けるヒス子はヒートアップを続け他の先生方に止められるまでその滑稽な姿を見せ続けることになった。
そこからだ。彼が輪に入れなくなったのは。誰もが失言を恐れるあまり、護身の為、関わり自体をなくしてしまったのだ。
まぁ、当然といえば当然だが云わば腫物を扱うようになってしまったのだ。
これは、多少極端すぎる話ではあるが、実際のところこの様に本人は輪に入りたく思うのにもかかわらず一部の”声が大きな人たちによって”その人たちを何とも思っていなかった人たちまで関わりたくないと思ってしまう事がよくある現状だ。
例えば、
すべての差別をなくす為にあなたは足がない障碍者に対しサッカーボールをプレゼントするだろうか?
このボールは全国民に配られるサッカーボールだ。だから、足がなかろうがプレゼントする。
こんな、押しつけがましい善意が本当に必要だろうか?
なら、足がない人もいるんだから全国民へのサッカーボール配布を取りやめるべきだとなれば、サッカボールが欲しくてたまらない人たちは足に障碍をもつ人々へ批判を向けるだろうと思う。
つまり、上記のエピソードはまさしくこの例え話に合致する。
本来は必要のない人ならば配らない。
そういった区別で解決するのにもかかわらず、
一部の声の大きな人たちのせいで
本当の差別が起きてしまっているのだ。
だからこそ、私は新差別論を唱えたい。
区別とは何か
散々私が言ってきたこの”区別”であるが
これはつまり、理解することである。
果物を籠ごとに仕分けるためにはそれぞれがどの果物かを知っている必要がある。つまりそれと同じで、その人がどんな障害を持っているのか、その人がどんな過去を持っているのか、その人がどんな人間なのか。
これを理解しそして平等に区別することが真の意味の
差別解消につながるのである。
皆さまもどうぞ理解してあげてほしい。
世の中にはいろいろな人種、宗教、考え、そして障碍がある。
それを知り、助け、そして共に過ごす事があなたができる
差別解消なのである。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
この内容は色々物議を醸すかもしれません。
私は、いろいろな考えを知りたく思うので思うことがあればコメントをお願い致します。
では、これにて失礼。