2024.4.9(火) グラデーション 何度も再定義し続ける 区分けしない なにも知らないんだってことを知る

米粉のチョコスコーンを思いつきで作ってみたら、焼きたてがおいしくておいしくて、半分ペロリで食べちゃった、そんな日でした。17時くらいに作って食べたけどやっぱり食べすぎで(ダロウネ)そのあとは何にも胃に入りませんでした。

少し前から読んでいるポリアモリーについての本。面白くて興味深くて 初めの方はモリモリ読んでいたけれど、少し止まってきた。思い込みや固定概念から解放されていくような清々しい感覚とともに、読み進めていくと、難しさに当たる……。その難しさというのは、すごく 絶妙なニュアンスのこと……。うまくことばにできるか分からないけれど……“理解を深めることによって生じる思い込み”がある気がする。でもきっとそういう“思い込み”が生じてしまう時点で、本質を捉えられていないのだとも思う。だからやっぱり、「分かったぞ!」と思うことが危険なのだなあ。
波のように繰り返していく必要がある気がする。ジェンダーについて様々な言葉が生まれ 広がり 自認しつつあるなかで、でもそれは「わたし/あなた」という主役を表す沢山ある中のひとつの要素に過ぎないということは、ちゃんと前提においておきたい。その言葉に当てはまるからと言って、それだけ、ではないし むしろ自分という存在がどの言葉に当てはまるのかを探しているんじゃなくて、グラデーションの中で重なる言葉もあるかな、くらいの感覚で。だから例えば「ポリアモリーでアセクシャル」というのは ほんとうに大まかなものなのだと思う、色で表すと 暖色 寒色 みたいな。明度はどうなのか 光沢は 質感 質量はどう感じるのか マットなのか パステルかビビッドか、色んな見方があって。言葉が生まれてその言葉がつくこと 理解のされやすさに 安心感があるのは わたしの実体験としてもある。けれどそこに囚われすぎずに、それはもう単純に「目の前の人を 何のカテゴリ付するわけでもなく 区切りをつけるわけでもなく ただ 知ろうとする そしてそれはどんなことであっても否定できるものでは無い」ということがすごく大切なんだ。知らないことを認めること、知ろうとすること、否定をすることなんてひとつも無いこと。そしてたぶん、正解も ない。

いったんここまでがわたしの考えとする。でも、ひとつ疑問とこれから考えていくことを書いて残しておきたい。今のわたしは 「人を傷つけること」は良いことではないと思っていて、そこをひとつの基準にどんな物事も考えを進めている。けれど他の考えを進めていくうちに、この考えは薄まりぼやけつつある、また何かのタイミングで、わたしはこれを定義し直さなくちゃいけないときが 遠からず来るような気がしている。それと完全にグラデーションなのは生死について。ここらはあんまりに果てしなくて、全然考えていないから、これもまたいつかどこかで。

どれもこれもきっと正解不正解にキッパリ分かれるものではないから、それこそ自分の中での納得出来る落とし所 基準をきちんと持っておくことと、それをいつでも柔らかく変容させていけるくらいの余地をもっておくことが大切なのだなあ。なんだか毎日同じこと言ってる気がしてきたので、日記、向いてないかもしれない。
明日も書きます。


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