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エッセイ集の制作や短歌づくりをしてて思うこと

お盆休み7/9日目の29歳女です。お盆はもともと実家秋田に帰るつもりだったけど、都合によりキャンセル。10月に発売するエッセイ集の制作や短歌づくりをしたり、ダラダラしたり。

エッセイ集や短歌を作ることはとても楽しい。ライフワークにしたいと当たり前のように思ってしまう。

どのあたりに楽しさを感じるのだろう?と考えてみると、次のあたりかなと思う。

  • 自分のこだわりを詰め込んで自己満足できる

  • 生きてること全てが無駄じゃないと思える

  • 言葉にすることで頭の中が整理される

まずは自分のこだわりを詰め込んで自己満足できること。これはクライアントワークではないからこそ感じられる満足感であり、楽しさだと思う。(仕事や公の活動じゃなくて趣味でもいいんだけども。)

自分にはまだまだ生きる上での満たされなさがあり、理想の世界もあり、表現したいことや主張したいこと、伝えたいこと、「こっちにおいでよ!」と誘たい人たちもいる。

クライアントワークは誰かのご意向に添う必要があり、謎のこだわりの強いわたし的には100%自分のこだわりを出せるわけではない。必ず誰かのご意向を入れることになり、自分のこだわりや興味レベルが低くなってしまう。

個人でやる活動は自分のこだわりを詰め込んで、純度100%でやれるから楽しい。そのことを思い出した。

クライアントワークはお金になりやすいけれど、そればっかりやってちゃダメだ。わたしはそういう人間なんだった。

次の楽しいポイントは、生きてること全てが無駄じゃないと思えること。

エッセイも短歌も、ほんの些細な出来事や心の動きを言葉に閉じ込められるから助かる。

社会で生きていると「これは○○にとっては無駄だ」「ズレたことをしたな」「今日はろくなことしないで過ごしちゃった」「タスクを早く終わらせなきゃ」と思ったりするけれど、たぶんわたしはそのスピード感や取捨選択が合わない人なんだと思う。

大事にしたいことを置いていかないと、生きていけない。でも大事にしたいことは、置いていきたくない。

何でもいいから「感じること」自体を楽しみたい。たとえそれを忘れてしまっても。

ズレていてもいい。自分がその時そう思ったなら、それが答えでありたい。

何もしないで過ごしたな〜と思った日さえ、何かは考えている。何かは感じている。

タスクは本当に早く終わらせる必要があるのか?自分が満足するのが大事じゃないのか。

生きてると出会う疑問や困りごとに対して、エッセイや短歌はわたしにとってのちょうど良いスピードを許してくれるから好きだ。

時間の流れは一定じゃなくて、たとえば本屋さんや美術館はゆっくりしている。自分の好きな時間の流れを知っていたいし、そこに身を置いていたい。

次の楽しいポイントは、言葉にすることで頭の中が整理されること。

これはADHDのせいか分からないけど、わたしは頭の中がずっと忙しい。ずっと何かをグルグル考えたり、目に映ったものが気になったり、知らない単語に出会うと調べたくなったり、とにかく忙しない。それは言語化しないとゴミのように頭に溜まっていき、メモリを侵食する。

エッセイや短歌として言語化することで、空中に浮遊しているゴミをキャッチできて、一旦はスッキリする。

エッセイ集づくりも、短歌づくりも、畑をぼちぼちやることも、明らかに自分にとっては楽しい。こういうことばっかりしたい。「こういうことばっかりしたい」をするだけで成立する人生にしたい。一歩ずつやることやっていくんだ〜。

毎日投稿256日目。

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伊藤七 | 書く人
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