【生きのびる日記】キャリアが弱くても、農作業をすればいい
植えていないはずの宮重大根が生えてきた。去年のこぼれ種が勝手に発芽したからだ。葉っぱがもさもさと茂り、白い肌が5cmほど土から顔を出す。寒さが本格化してくるこの時期が一番、大根が大根らしくなっていく。
たくあんにしようか? カクテキを量産しようか? 余ったら、切り干し大根として保存しようか。
雑な畑をはじめてから、今年で4年目になる。農家になるつもりはないし、正しく畑を運営する気もない。それでもなぜ畑をやるかといえば、生きることに直結する上に、何かに許されるような気分になるからだ。
「家庭菜園をしている」と言えば、善良な若者のような雰囲気が出る。実際のわたしはそんなことなくて、ただ何かに許されているような感覚を得られるからやっているのだと思うけど。なんとなくクリーンな雰囲気がわたしを包んでくれるので、救われる。みんなが仕事している時間帯に昼寝をしても、急に今日を休日にしちゃっても、畑をやっていれば、何かに許されるような気がする。
食糧を生み出せば、仮にキャリアが弱くたって死なないことも大きなポイントだ。
野菜や米を作れば、収入が少なめでも「食っていく」ができる。自給率100%まではいかなくとも、畑の野菜は日々の食料の足しになる。いざとなったら畑を拡大すれば、自分たちは死なないと思える。
普通に暮らしていると、「労働の対価としてお金を得ること」は「生きること」に欠かせない要素のように思えてくる。本当はそんなことないのに。
生きるには、何かを食べればいい。食べるには、食べ物を作るか、もらえばいい。
このとてつもなくシンプルな形を自分のものにしたくて、畑をやっている。
農作業をして汗を流せばスッキリするし、作業自体も楽しい。でもそれは畑をやることのメインではない。メインはあくまでも、生きるための直接的な行動をしたいこと。それによって何かに許されていたいこと。
「生きててすみません」と思う人やバリバリと働き続ける自信のない人は、農作業をしてみたらいいと思う。
狩猟体験でも、木の実の収穫でも何でもいい。とにかく「生きること」と直接繋がった動きをすると、心の置きどころがわかってくる。