日記(訂正する力 第3章感想)

またまた「訂正する力」より。

訂正というよりは再構成・再認識

日本において、祭りは、単なる娯楽でもなければ、また宗教儀式でもない、ひととひとを結びつけるアイデンティティの確認の手段として発達してきました。

 176p

祭りもまた「訂正する力」が働いている…のは、本人が言うように少し飛躍しているが、組織の一員としての再構成・再認識という意味なのかなと。立ち位置や考えが激変するわけではないが、歪んだ姿勢を少しただすような「訂正」なのだろう。とはいえ祭りは外部からもやってくるので、そういった人たちにとっては異なるイベントではあると思う。

組織を定期的に再構成する、耕す行為はかねてより文化的に行われていて、それは継続的にあるべき、というのは賛同できる。「組織なき運動」やSEALDsが廃れてしまったのが再定義が生じなかったためだ、という考えもうなずける。
「組織なき運動」の一例として、よく目にしてきたものがある。モチベーションの高い有志が進んでユーザに(品質の高い)サービスを提供してくれるが、その有志の環境変化でサービスが終了してしまう、というのはコンテンツに触れているとよくあることだろう。継続性とは経済面での存続だとも考えるが、本書に触れてみてどのように変化できるかもまた問われていたのかなと感じた。有志のサービスが何らかのビジネスと絡み合って、それが反発されて消えてしまった、なんてことも多い。変化なくして生き残れないという事実に、ユーザが遠くまで見ていないために起きていた悲劇だったのではなかろうか。草の根から始まっているがために、遠くは見こせないのだろうか。
そういう意味では、現在はyoutubeが収益に(あまりにも)直結しているため、多少ビジネス色も寛容になっているのかもしれない(あるいは、まわりが高齢化したためか?)Xもそういうのに乗っかりたいのかもしれないが、やりかたがあまり上手じゃなかったんだろうなあ…。


おまけ

気分転換で縦モニターにしてみた。記事書くときストレートに視認できてなかなか良いかも?!

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