自分の「居場所」を増やしていく
2025年、ちょっと自分の居場所を見失ってふらふらと彷徨うところから始まった。
大晦日にアーバンライナーに乗って大阪へ戻った。
普段は新幹線で1時間弱の道のりを、文庫本を片手にゆっくりゆっくりと帰る。
降り立った鶴橋の駅があまりにも何も変わっていなくて感動した。
何も変わってない、というのはここ数年の話ではなく、私が高校生のころから、という意味だ。
環状線沿いの高校に通っていた私は、よく鶴橋駅構内のロッテリアで時間をつぶしていた。
誰を待っていたのか、誰も待っていなかったのか、詳しいことは何も覚えていないけれど、ロッテリアのドリンクLサイズは飲みきれないということ、ポテトはほくほくタイプということ(私はマクド派だ)、カウンター席は充電ができるということだけを記憶している。
年末から年始にかけて、色々な人と会った。
中高の同級生たちとも久々に酒を飲み交わした。
私は中学から地元を出て私立の中高一貫校に通わせてもらっていたのだが、まあ、大人になってからもそのころの同級生たちとよく会う。
13歳から18歳まで、人格を形成する貴重な6年間を共に過ごした人たちとは、やっぱり波長が合う。
変なやつらだし、語彙がおかしい。
静かにしていれば普通の人間なのに、口を開けば全員もれなく怪異と化する。
でもそれが心地よい。
私も怪異の一種だからだろう。
あのころ、閉ざされた箱庭のような校舎の中だけが私たちのすべてだった。
逆に言えば、その世界だけを守っていればよかった。
大阪にいる間、旧友たち以外とも会った。
諸事情により私の大阪滞在は延長されることとなり、私は身一つでかつて在籍していた事務所に顔を出すことになった。
久しぶりに顔を見る人たち。
かつては一緒に仕事をしていた人たちもいれば、私が転勤になってから入社してきた、ほとんど関わりのない人たちも大勢。
息苦しいオフィスから出てそびえたつビル群を眺めながら、不意に、私の居場所はもうここにもないんだなと当たり前のことを改めて実感した。
13歳で離れた地元にはもう友達と呼べるような人もおらず、実家へ帰れば私の知らないうちに家が改造されていて第二の人生を謳歌している両親がいる。
妹は家を出て家庭を持ったから、そう簡単には誘えなくなった。
5年間住んでいた淀川のふもとの街には特にこれといった用事もなく、しばらくはあそこを訪れることもないだろう。
そもそもあの土地に知り合いなどおらず、絶妙に美化された思い出だけが亡霊のように漂っている。
あれだけ必死にしがみついていた会社も、中途採用で一気に入社した人たちがわんさかいて、なんだか知らない場所のようで落ち着かない。
元来私は、置かれた場所で咲くのが得意だった。
だいたいどこに放り込まれてもそれなりの楽しみを見つけて生きていける人間だった。
だから、名古屋にひとりぼっちで放り出されても、案外平気だった。
ひとりの楽しみ方も知っていたし、周りを巻き込むことも得意だったから、名古屋の私の家には沢山の友人たちが各地から泊まりに来てくれた。
だからそれで満たされていて、「大阪に帰ってこないかって? 別にいいけど今は名古屋の暮らしも気に入ってるからねえ」とあやふやな返事を繰り返していた。
そうしているうちに、大阪にあった私の居場所はとっくに消え失せてしまっていたのだ。
街は変わらずそこにあるのに(しいて言えばKITTEが新しくできたくらいか)、そこを行きかう人々は常に移り行く。
私も変わってしまったところがあるし、お互い様なのだけれど。
予想外に延長された大阪滞在は、京都への出張で締めくくられた。
雪がちらほら舞う京都もまた、いっとき私の居場所でもあったが、ここにももう誰もいない。
大学時代の友人たちは皆てんでばらばらになって、それぞれの人生を歩んでいるからあまり頻繁には会えない。
京都タワーを横目に見ながら新幹線に乗り込み、あれやこれやしていると知らぬ間に名古屋だ。
10日ぶりに自分の家にたどり着いて、ようやくほっとひと息ついた。
年始から色々なことがあったなあ、色んな人と会ったなあと、ソファに沈み込みながらぼんやりとまどろむ。
あの街に自分の居場所がなくなっていたということ。
確かに寂しさはあったのだけれど、裏を返せば私が一生懸命にここで生きているということでもあって、それはそれで愛おしい。
閉鎖的な空間で限られた人間関係の中の自分だけを守っていきていれば良かった高校生のころとちがって、色んな場所で色んな自分が、ある程度はその場に求められた形で存在する。
だから私も変わっていくし、居場所だってその都度移り行くものだ。
それは決してネガティヴなものではなく、私が生きている、変化している証拠なのだ。
そう考えると少しだけ、いまの暮らしを続けていくモチベーションができた。
できれば今年はもうちょっと、私の居場所を増やしていきたい。