見出し画像

こうでなければならないを手放す

私は、自分の中で「こうでなければならない」が強すぎる。

例えば仕事
正社員でなければならない。社会人だからこうあるべき。
そんなしょうもないルールに縛られて、自分の心や気持ちは置き去り。自分じゃない人が、そのルールに当てはまっていなくても何も思わない。むしろ素敵だと思う。なのに、自分なると途端に甘えているんじゃないか、と思えてくる。
なぜなら、過去の自分はできていたから。
1年前はできてた。先月はできてた。昨日はできたのに。
そう思ってしまう。続けることがいかに凄いことか。と思い知らされる。
人は許せて、自分は許されない。

プライベートに置いてもそう。
人間関係の間でこうあるべき。誰かがモノを落としたら拾ってあげるべき。みたいなものがある。
ある人が腰を痛めていたとしよう。ぎっくり腰とか、目にみえて腰を痛めていることがわかる状態の人。その人の目の前で何かが落ちた。
私は拾わなくていいと思う。だって腰が痛いんだから、あなたが拾う必要がない。落とした人は自分で拾える。何かしらのハンデを抱えていたとしても、拾うべき、拾うのが優しさ、正義ではないと思う。
では、ここで自分に置き換える。
自分がどんな状態であれ、拾うべき、だろ。になる。拾わなかったあかつきにはそのあと数十分、ひどいと数時間後悔することになる。意味がわからない。

自分のお家でもそう。
少し散らかる、お風呂に入るのが面倒、太った。とか。そういうのが、自分には許されない。極端な言い方だが。

ここまで書いて、ああ完璧主義か。と思い出した。
その完璧主義は、誰の何のためで、何につながるの?
全てにおいて完璧主義なわけでもない。私は勉強はできないし、友達との約束もドタキャンするし、買い物に行って落としてしまったお菓子とか申し訳なく思いながらも棚に戻す。

自分の中にあるこうでなければならないは、時に目標や目指していることに近づけてくれる。
だけど、縛られすぎるとかえって自分を苦しめ、許せない自分になっていき、自己嫌悪に陥り、何もできなくなって、なりたい自分や目指していた目標からひどく遠ざかる。元に戻ることができない人もいる。自分もその1人な気がしている。
正社員で働くことも、週5勤務の8時間労働ですら体が悲鳴をあげ、壊れ始めている。

坂本裕二監督が好きなのですが、とあるドラマのセリフで「じゃんけんに一番弱い人はじゃんけんのルールがわからない人」というセリフがある。
じゃんけんのルールがわからない人は、周りが大きな山に囲まれているという。
じゃんけんのルールがわかる人は、なんでできないの?と言う。
私はどちらでもない。じゃんけんのルールがわかって、じゃんけんができるのにたまに間違えたり、凄く頑張らないとじゃんけんができない。
じゃんけんのルールがわからない人から、できてるじゃん。と言われ、ルールがわかる人からは、できてたのになんでできないの?と言われる。
居場所がないように感じて、どちらからも責められているように感じて、どちら側にも行けなくて、どちらかになろうとしてもそれは、自分に嘘をついているような気がして、どちらにも行かなくていいのに、どちらにも行かないとそれはそれで自分が苦しい。

いろんな自分ルールを少しづつ手放して、自分ができることを精一杯。
こうでなければならないを少しづつ手放して、私は私らしく、できないことはできなくて、できることは頑張って、そうやって少しづつ自分を認めて、自分に自信を持って生きられるようになりたい。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?