勤続20年を迎えられた理由を真面目に考えてみた①
先日きちんと表彰?され、ようやく実感がわいた。
20年…長いようであっという間だった気がする。
継続出来た大きな理由から話すと
最初が最悪だったから。
そこに尽きる。
少し振り返りがてら書いてみる(金融機関勤務)
社会人1年目4月
一ヶ月間の泊まり込み研修で現場には出ず。
初任給がバイト並みだった記憶があり、
感動より衝撃が強く、使い道を覚えてない。
多分貯金(実家暮らしで少し入れたくらい)
数ヶ月見習い期間で色んな支店に巡る。
結構楽しかった記憶はある(人間関係が良好)
9月
正式に配属先が決まり、内心行きたくない支店で昼休みに一人休憩室で泣いた。
2週間くらいで体調を崩し、初の点滴を受ける。
職場内では基本放置されていた。
分からないところがあって質問するも、やるからいいと冷たくあしらわれ、まともに教えてもらえなかった。
自分なりに調べてやるものの、結局分からずミスの連発。不備を指摘され、謝りに行く日々。
無駄に居残りをすることになり、終わりがなかなか見えず周りもイライラ。
毎日21時過ぎ(定時は5時半)が当たり前。
当時日記を書いていた。主に電車に乗った時間が記録されていたが、懺悔とかも書いてあってなんだか恐ろしい(無論忙しさもあったが)
定時で帰れたことなんてほぼない。
ある時からは最寄り駅に着くと体調が悪くなった。業務に集中出来なくて、更にミスを連発。
ひたすら怒られ、ため息だけつかれる日々。
恐怖しかなかった。職場の空気は常に重たい。
帰りの電車に乗ると体調は嘘のように落ち着いた。
その繰り返しだった。
当時はうつ病や適応障害なんて単語を知らなくて、とりあえず内科に行って症状にあった漢方をもらい、なんとかやり過ごす日々だった。
今思えば完全に病気だったのだ。
ストレスからかまさに無駄な散財が酷く、部屋は物に溢れていた。物欲で満たしていたのだ。
(思考能力も落ちてた)
両親には毎日のように愚痴り、しんどい辞めたいと言って気がする。
まだはげ口があったから良かった。
2年目夏
ある時別の部署の人と話すことがあり、現状をぽつんとこぼしていた。
その後個別に呼び出され、色々と親身になって聞いてくれた。それこそ終電ギリギリまで。
嬉しかった。こんなにも自分を考えてくれた人がいたことが。
だが、それも一瞬のこと。
とうとう色んなことに限界を迎え、私は新幹線に乗り込んでいた。
行き先は日本海…にある水族館だった。
ひたすらにイルカのいる水槽を眺めてボーっとしていた。癒されて、気づいたらぼろぼろ泣いていた。
実はそこを選んだのは親友が住む街だった。
連絡したのは前日くらいでさぞかし驚いたことだろう。
胸の内を話して少し楽になったのか、そのまま帰路についた。
少し気持ちは安定したが、すぐにまた戻ってしまった。どん底の日々。底しか見えない。
こんな日々ならいっそのこと終わりに…なんて
結構考えた。
誰か、誰か助けて。
そしてまたある時、片道2時間かかる叔母の家に向かっていた。その時体調は絶不調で、まともに電車に乗る元気もなく途中具合悪くなり、頻繁にトイレに駆け込む。
フラフラしながらもなんとかたどり着いた。
私にとって叔母は第二の母のような存在であった。最後の砦だった気がする。
叔母は黙って私の話を聞いてくれ、終わると
同時に立ち上がり「送るよ」と
すぐさま車を出し、寄り道しながら送ってくれた。
なんてことない会話をして、健康ランド(今はないかな)に行き、
人生初の足裏マッサージをさせてもらった。
まさに痛気持ちいい。
終わった後のスッキリ感は今でも鮮明に覚えている。
『女優になりなさい』
と叔母は一言だけ言った。
もちろんそのままの意味ではなく、
仕事に対して真摯に向き合いなさい。
と言いたかったのだろう。
その時の私は、自分の取り巻く状況を周りのせいばかりにして、自分自身を変えることは一切しなかった。
誰も助けてくれない。
のはちゃんと助けを求めてないから。どこかで諦めてしまっていた。自分からのSOSを。誰かに助けてもらうのを待っていたのだ。
もちろん手を伸ばして、振り払われることもあるかもしれないが、手を差し伸べてくれる人もいること。
他の部署の人達や叔母のように。
その日を境に、私は今の現状からどうすればいいのかを考え、すぐさま動き始めた。
休みを取り人事に強い上司に状況を伝え、相談しに行った。
不安も大きかったが、それでも何もしないよりはマシだった。
その甲斐もあり、翌年から異動になった。
ほんの少し光が見えたような気がした。
長くなったので続く?かも。