見出し画像

心がけ

 10年ばかり前、パソコンに向かって仕事をしていたらグスタフさんに「百さん」と呼ばれた。
「ん?」
「地震ですよ」
 そう言って、グスタフさんは天井に目をやった。こちらもつられて見上げたけれど、天井には蛍光灯がしっかりネジ止めしてあるきりで、揺れるような物は何もない。だからどうして上を見たのか判然しないが、足元が揺れているのは間違いない。これまでに見知っている小刻みな揺れ方でなく、ユラーリユラーリと大きくゆっくり揺れているので、云われるまで一向気付かなかったのである。
 周りもみんな「地震」「揺れてる」「えぇ」など云い始めたけれど、グスタフさんは仕事に戻り、他もみんな席を立とうとはしない。
 どうもこの人たちに付き合っていたら死ぬかも知らんと思って、自分は一人で席を立ち、スタスタ歩いて屋外の駐車場へ行った。毎年やっている防災訓練で、そこが避難場所に決めてあったのである。
 電線を眺めながら、揺れが収まるのを待っていたが、出て来る者は一人もない。これでは防災訓練もしがいがないだろう。全体、毎年訓練をやらせる側の総務の者も出て来ないには甚だ呆れた。
 そのうち揺れが収まった頃になって、ようやく皆ぞろぞろ現れた。
 全体あんた方は毎年何のために訓練をやっているのかと云ってやろうかとは、何の得にもならないので云わずにおいた。
 その代わりに、スミスさんをつらまえて「地震のおかげで仕事にならないですねぇ。何とかしてくださいよ」と言った。スミスさんは「俺に言われても」と困った顔をした。
 この調子では、大きな災害があればきっとみんな無事では済むまいと思ったけれど、災害が来る前に会社がなくなった。

いいなと思ったら応援しよう!

百裕(ひゃく・ひろし)
よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。

この記事が参加している募集