日記:ボトルネック 2025/01/13

米澤穂信の「ボトルネック」を読んだ。ので、感想を書きます。ネタバレはあります。



まず大前提として面白かった。読みやすい上にそれなりに簡潔にまとまっているため、一気に読めてしまう。

その上で自分がこの作品の感想を一言で言うなら、「悪辣且つ面白い」だった。悪辣「だから」面白い訳じゃないのでそこは誤解されたくない。

この話は、「自分がいなければ本当はみんな(世界は)幸せだった」という「もしも」の想像が現実として目の前に突きつけられた高校生が主人公だ。

彼は自分が生まれず、代わりに生まれた姉だけが存在する世界で、自分が居た世界との違いを思い知らされる。両親の関係は良く、経営不振の店は立ち直り、死ぬはずだった人間は生きている世界。

その原因が自分だという事に否が応にも気づかされること、そしてそれを知ったうえで死ぬのか、地獄のような自責と苦しみと共に生き続けるかを選択させられるという残酷さがある。

自分はこの話の結末に対して、悲しくはあれどショックはあまり受けなかった。おそらくこれは自分がある程度歳を重ねていて、人生や主観の持ち方がある程度決まっているからなのかもしれない。もしこの本を高校生の時に読んでいたら、少なくとも3日はふさぎ込んでいたと思う。

ただ今の自分からすれば、主人公であるリョウに何の責任があるというのだろうと思ってしまう。彼は自分の行動、つまりは「受け入れるだけ」の人生だったことが彼を取り巻く環境を作り出し、それによってすべてがうまくいっていなかった…つまるところ、彼という存在では世界は成り立たなかったのだという風に突きつけられているのだが、そもそもここがおかしいと感じてしまう。

彼がいた世界より姉が生まれた世界の方が素晴らしい世界だ、というのは結局のところ結果論でしかない。夫婦喧嘩の最中に姉が割り込んでいったことが結果的に夫婦仲を取り持ったが、そうならない可能性だってあった。リョウが黙っていることで事態が好転する可能性は0だったのかといわれればそうではないはずだ。

そしてその結果は本来は判らないはずなのだ。とらなかった行動の結果を知りたいのはだれしもそうだが、それを知れないからこそ人は狂わずにいられる。それをむざむざと見せつけてきたうえで「君ががんばれば本当はこうなっていたはずなんですよ」と宣うのはあまりにも勝手が過ぎている。

彼がボトルネックだというのも甚だ疑問だ。彼は自分が世界のボトルネックなのだと気が付くのだが、そもそも彼を取り巻く環境が壊れているのは彼のせいではない。実際彼が生まれなくとも家庭環境は劣悪だった。リョウがボトルネックなのではなくて、サキが潤滑油だという方がまだ納得できる。

そもそも、リョウだって自分から生まれようとして生まれてきたわけではないのだ。彼は彼なりに与えられた環境で懸命にやっていたと思う。あの家庭環境の中で「もっと頑張れよ。姉だったらうまくやれてるぞ」なんて言えるだろうか?

たとえ彼らがリョウの行動を変える為、省みらせる為にあの世界を見せていたとしても、大きなお世話という他ない。なぜなら現実では姉は生まれていないし友人は既に亡くなっているのだから。そこに無い存在からのクレームなど何の意味もなく、ただ虚しさを増長させるだけだ。


この話が仮に「逆」だったらどうなるのだろうと思う。実際に生まれたのがサキでリョウが生まれなかった世界で、東尋坊を訪れたサキがリョウが生まれた世界に迷い混む。

リョウはサキが生まれた世界の話を聞いて、きっと同じように絶望するに違いないし、きっとサキはリョウの生まれた世界でも上手くやるのだろう。そしてやっぱり同じように、自分という存在が世界にとっての邪魔者なのだと思う。

そして最後に彼は、元の世界に戻る直前のサキに向かって言うのだ。

「僕が生まれなくて良かった」

こんなことを書く自分の方がよっぽど悪辣で底意地が悪い。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集