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「捨てる」とは何を? -「自分にはできない」時は?
1/17に発売させて頂いた香山リカさんとの対談本「捨てる生き方」
ご希望の方へは、サインという名の落書き付きでお送りさせて頂いております。
お気軽に龍光ポストへ、お送り先住所と冊数(復数冊の場合、本に書くお名前それぞれ)とともにご連絡くださいませ。
と、いきなり宣伝から失礼いたしました🙏。
さて、本のテーマでもある「捨てる」とは、一体何を捨てるということなのでしょう。
そして「自分には捨てられない」という方もいらっしゃいますが、実は日常でも「捨てる」生き方はできるものではと思っております。
このブログは、そんな考えについての戯言です。
さて、この本で触れている「捨てる」の趣旨は、お金や肩書などを「捨てたほうがいい」という内容ではありません。
「捨てる」というよりは、苦しみを感じさせる対象を「脳内で手放す」という方がしっくりくるかもしれません。
それは、お金や肩書への「執着」や、自分や子どもの生き方について「こうでなければいけない」「こうあるべき」といった「とらわれ」といったもの。
なぜなら、執着、とらわれは、「思う通りでない」様を強く感じさせ、自分を苦しめるものだから。
そして、その自分を苦しめている対象は、実際には目の前にあるモノではなく、自分の脳内にしかない、実態のない「概念」でしかないものかもしれないから。
だから、苦しみたくないなら、それを勇気をもって「手放して」みればよいのでは。
それが、「捨てる」という言葉の趣旨と考えております。
けっして、お金や物へのこだわりが無い方がいいと言いたいわけでは有りません。
ただ、その対象で苦しく感じ、その苦しみから離れたいのであれば「実は握りしめているのは自分自身なのだから、手放すのも自分でできる」と気づくことが大切なのではと思うのです。
苦しめている対象は、周りの誰か、会社や、政治や、現代の社会だけではなく、実は「捨てられない」と自分で必死に抱きしめている(と脳内で感じている)概念でしかないのだと、気付けることが大切なのでは、と。
もちろん、物理的な暴力などが起こる前では、脳内で何かを手放すだけでは解決せず、物理的に「離れる」ことも大切と思います。
ですが、多くの悩ましいことは、実は「脳内」の出来事で、それを自ら手放されば、実は解放感が生まれることが多いもの。
なので「捨てる」ことが、生きやすいさにつながっていくのでは。
と、そう感じております。
「とは言っても、自分はなかなか捨てられないんです」というものかもしれません。
そんな時にどうしたら?
決して、ハゲアタマになったり、いきなりバッサリ断捨離なんてできなくてもいいのではと。
実は、日常で「手放す」行為は気軽にたくさんできると思っています。
たとえば、日常の挨拶。
誰かから「おはようございます」と声をかけられてから挨拶を戻すのではなく、
自分から「おはようございます」と発してみる。
ここで"手放している"対象は何でしょうか。
「引っ込み思案なわたし」だったり「声を先にかけてもらうのを甘えたい自分」だったり「自分からは声をかけたくないプライドやマウント心」だったり。
それらは、別に手放さなくてもよいものかもしれません。
でも、気持ちよく挨拶をかけてもらうのは、大体において嬉しいものではないでしょうか。
そして、やろうと思えば、自分から挨拶をすることは、さほどのハードルなくできることかもしれない。
だったら、たまには自らそういった役割を担ってみるのは、悪いことではないのでは。
そして、そうしたものは、手放すほどに、よりよい人間関係に繋がり、より幸せを感じやすい生き方の自分になっていくかもしれません。
そして、たとえば、「ゼッタイに〜だ」とか「〜にちがいない」という考えも、「手放してみる」ことはできるかもしれません。
「もしかしたら、違う可能性を考えてみてもいいかもしれない」「自分には見えてない何か別な背景があるのかもしれない」など。
なかなか信じられないのですが、我々の脳は「そうに違いない」としか感じられない仕組みになっている。
自分では「実は偏った決めつけかもしれない」とは全く信じられないくらい「自分の見立てが間違いないに決まっている」と感じさせる仕組みでできている。
でも、決めつけるほどに、違う見立ての他人との摩擦は生まれやすい。だって、人それぞれ考えや解釈もちがうものだから。そして、断定するほどに、違う可能性に気がつけなくなり、新たな考えを手にしたり体験を得たりする可能性を自ら閉じることになっていくかもしれない。
人間関係も閉ざされがちになってしまうかもしれない。
「ゼッタイ〜」とか「〜に違いない」と感じる時ほど、その考えをあえて手放して、違う可能性を脳内に持ってみる訓練をもってみる。
それは「偏見に気付けない自分を手放す」ことで、柔軟な自分を手にすることに繋がることかもしれません。
このように、「手放す」「捨てる」ことが、生きやすく、満たされを感じやすい生き方に繋がるという事は、日常でもたくさんあるものかもしれません。
モヤモヤする時ほど、身体はこわばって呼吸が浅くなり、実は肺の中に二酸化炭素が捨てきれてないかもしれません。
呼吸に意識を向けて、常に「捨てきる」意識を持つだけでも、随分生き方は変わるかもしれません。
と、奥さんも捨てられず、スマホも捨てず、多少のお金も捨ててない、俗にまみれまくったただのハゲアタマの戯言でした。
今日もお付き合いくださり、有難うございます。
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