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「人生を通した幸せ」へのヒントとは

今から2300年ほど前、ギリシャの哲学者アリストテレスは富、権力、名声、強さ、美しさは一時的な幸せ」でしかない。と説いてます。

その200年ほど前(今から2500年ほど前)、インドのブッダは
"たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」"と説いてます。

たしかに、資産も権力も名声も、手にした時は嬉しいけれど、「手にできた」喜びはすぐに飽きて、手にしている状態も慣れて、しかも、それらは「人生を通して」手にし続けられるかは分からないもの。
それは場所を問わず時代を超えても、正しい事なのではないでしょうか。

喉から手が出るほどほしいと思っていたモノだって、手にしてしまえば、当たり前になってしまう。
大好きで付き合うのが憧れだった人とも、一緒に住みはじめてみると、それが日常になる。
憧れだった会社や地位も、その日々が続くと、それは前提となる。

「(自分にはまだ)ない」と感じるから、「手に入れれば変われる」と思うけれど、いざ手にして見たら、さほど大したものではないかもしれない。

それは、いま無事に生きていられている"いのち"や"健康"と同じように。

そして、それらは「失う怖さ」を感じさせもする。
病気になってはじめて健康の有り難さを感じいれるように、"それ"を手にする前には感じられなかった感覚にも関わらず。

こうした感覚は、脳内の伝達物質のひとつドーパミンの仕業で、期待し手に入れようとするために我々を"駆動する"ことによって起こる現象が要因となっている。
その「期待し、手に入れようとする心地よさ」は一瞬の感覚でしかなく、同じ期待値の刺激では満足せずに、より強い刺激を求めようとしていく。

そう、自分なりに解釈しております。

じゃあ、人生は手にしても満たされないものなのでしょうか?
「人生を通した幸せ」など、あるのでしょうか?

アリストテレスは富や名声はいずれ失う可能性があるため、どこまで求めても「一時的な幸せ感」であると語る一方で、「人生を通した幸せ感」には「他に善い行為の継続」が重要だと説いてます。
(※「ニコマコス倫理学」より意訳)

そして、少し先輩のブッダ(仏教)は「(おだやかな心を手にするには)一切の生き物に慈しみの心を起こす」のが良いと説いてます。
(他にも「おだやかな心」のための教えはいろいろありますが、ようは「善い事をし、悪い事をしない」と説いてます)

同じテイストを感じませんかね。

さらには、仏教に限らず、その500年ほど後に生まれたキリスト教(イエス)は「(周りを)赦し、愛せ」と説き、さらに600年ほど遅れて生まれたイスラム教は「喜んで他の人に施せ」と説いてます。

「諸説あり」かもしれませんが、宗教が人の苦しみを救済し幸せに導くものという点でゴールが同じなのだとしたら、仏教もキリスト教もイスラム教も、結局みんな「"幸せな人生"を得たいなら他に善きことをしなさい」と同じことを説いているのではと思うのです。
それぞれ、生まれた時代も土地も違うにも関わらず。

その教えの内容は、宗教にかぎらず、「万学の祖」と呼ばれた哲学者アリストテレスが説く教えと同じ趣旨がある。

さらには、最新の脳科学でも「他人の喜ぶ姿を見ると幸せを感じて笑顔になる」と示している。

これは、おそらく"真理"なのではと。

約40億年におよぶ地球生命の進化の歴史の研究では、「最も生き延びやすい」のは、強いものでも賢いものでもなく「他との柔軟な協調性を示す生き物」であるという知見からも、同じ事を言っているかと。

そして、何かしら、他へ善きことをする行為には得てして肉体を動かすことで心地よさを感じるセロトニンという脳内伝達物質や、他者との共感により心地よさを感じるオキシトシンという脳内伝達物質が絡んでいるであろう。

つまり、「人生を通した幸せ」を得ていくには、一時的かもしれないし失うかもしれないお金や富といった「何かを期待し手に入れる」ドーパミン的な心地よさも大切だが、それだけでは「もっと刺激を!」と苦しくもなるので、身体を動かし周りの誰かと喜びを分かち合えるようなセロトニンやドーパミン的な心地よさも大切なのでは。

そう、ハゲアタマなりに考えております。
諸説ありですが。

僕が繰り返ししつこくオススメする4つ「早起き、散歩、挨拶、掃除」のうち、挨拶、掃除は「脳内伝達物質の幸せカクテル」を味わいやすいものだと感じております。

挨拶は、なかなかお返事が頂けないときもありますが、たまにとても気持ちのよい笑顔が頂けることがある。
それはドーパミン的な期待と達成の喜びももたらしてくれるし、共感のオキシトシン的な心地よさも手に入る。なにより、歩けばセロトニン的心地よさも感じやすい。

掃除は、時に思わぬものを発見したり、外のゴミ拾いは宝探し的な楽しさもあり、ドーパミン的な期待と達成の喜びももたらしてくれるし、身体を動かすことでセロトニン的心地よさもある。そして、特に外のゴミ拾いは「これで誰かが気持ちよく道を歩けるようになるかも」といった、共感のオキシトシン的な心地よさも生まれやすい。

誰しも、自分はカワイイものですが、ブッダいわく
「自分が大切」のは自分だけじゃない。だからこそ、自分の大切なものを追いかける過程で、他人にとって「大切」なものを、損なわないようにすべき。

だって、自分の大切なものを損なう人がいたら、その人に復讐したりイジワルしかえしたりなりがちなもの。
自分が誰かの大切なものを損なったら、自分が復讐されたりイジワルされたりしがちなもの。
それは、幸せは得にくい。

そして、自分が苦しい時に助けてくれた人には、なにか恩返しをして相手の喜ぶ姿を見たくなるものではと(これが共感の心地よさのオキシトシン効果では)。

だから、誰かが苦しい時に助けてあげれば、なにか恩返しをしてもらい自分が喜ぶような事をしてもらいやすくなるのではと。

今日2025年1月17日は阪神淡路大震災の30年目の節目となります。

災害は、いつどこで誰にやってくるか分からない。そして、大切な周りの生命も簡単に流してしまう。

生きていられているだけでも、実は「とてつもなく有り難い」ことかもしれないのに、ただ生きている日々の中で、それはあまりにも「当たり前」と慣れてしまうもの。

でも、実際、いつ誰がどこで、家を失ったり、大切な誰かや、自分自身の生命すら流されてしまう惨事は起こり得るもの。
自分の願いや希望など関係なく…。

そんな不条理の苦しみでも支えてくれるのが、縁ある善き誰かではないかと思うのです。

そんな存在を求めた先に、ときに「宗教」とも呼ばれる、ブッダやイエスやアッラーなどなど様々な預言者や神や救済者が生まれたのでしょう。
(現代まで広く指示される宗教の成り立ちには、必ず自然の厳しさや社会の厳しさなどの不条理ともいえる苦しさが背後にあります)

不条理とも感じられる出来事は、いつでもどこでも「まさか」と生まれてくるものだから、「善き縁(安心できる誰かとのつながり)」こそが、人生において「幸せ」感を与えてくれるものになるのでは。

そんな、「誰か善き人との縁」こそ、育てていくべきでは。

金や名声や権力のような「一時的でしかない幸せ感」に囚われていくほど、"金の切れ目は縁の切れ目"として「善き人との縁」も失われていくもの。

だからこそ、縁ある誰かに喜んでもらえる事をするほど、自身の人生も幸せ感が継続しやすいものではと。

そうハゲアタマなりに考えております。
諸説ありですが😅。

今日も、お付き合いくださり、有難うございました。

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