「感動を自覚する」、自分のことを知る
「最近感動したのはいつ?」
数年前、今の会社に転職したばかりの頃、飲み会でほろ酔いの上司から言われたのだが、当時のわたしはそれに即答できなかったことを忘れられない。その時、自分の回答の「正解」を頭の中で必死に探していた。
「次聞いた時に答えられなかったら、この会社だと許されないよ」
続いた言葉を聞いて「失敗した」と思う。
新卒で入った会社は、一つのプロジェクトに関わる人数がものすごく多い大企業で、クライアントというものが必ずいた。一方で今の会社は数十人が基本個人業のような感じで自分のプロジェクトを回していて、もちろんチームを組むこともあるが、自分の部署から助っ人が来ることはない、自分の領域の意思決定は基本的に自分1人に任される。クライアントが必ずしもいるわけではなく、自分が面白いと思ったプロジェクトは基本的に自力で完遂しないといけないことも多い。答えを教えてくれる人はいないのだった。
そもそも「正解」は教わるものではなかった。わたしを会社の中で、ひいては社会の中で定義づけるのは「何を考えて、何に心が動くのか、普段何に目を向けているのか」であって、(いずれいなくなる)上司が求める答えを出すAIじゃないんだ。恥ずかしくなると同時に嬉しくなる。
上司の話は、「自分の心が動いた瞬間がわからなかったら、どこかの誰かの心は動かすことができない」という考えであると同時に「どういった目線で社会をみているのか」という自己紹介を求める言葉でもあったと受け取っている。答えられなかったことが今でもずっと情けなくて恥ずかしい。叫び出したくなるたびに、明日はもっといい仕事をしようと思う。
「なんか良い」を無理に言語化できなくても、「これがなんか良かった」ことを覚えておこうとするだけで、見える世界が変わるかも知れない。そういうふうに、凡人のわたしは誰かの新しい感動を作ることができるような目を持ちたくて、誰かの言葉や仕草の輝きに気がつけるようになりたくて、そのためには目を凝らすしかない。
自分は何に感動するんだろう。そう考えていると、世界が悪くないように見えてくる。外出先の街で見つけた定食屋に置かれている箸の位置とか、メニューの内容とか、そういうところにも人間の思惑と思いやりを勝手に感じたり。仕事につながることなんてほとんどなくても、毎日は面白い。