【育児】教育すべき子供が目の前にいることを忘れちゃいけないねって話
「腐ったミカンの方程式」という言葉がある。かの有名な「3年B組金八先生」で有名になった言葉のひとつだ。
もともとは、非行少年がいる学級はその影響を受けて周りの人間もダメになるということを説明するために使われた言葉である。要は非行少年は「腐ったミカン」であり、クラスに「腐ったミカン」がいれば周りも腐ったミカンになってしまうからその腐ったミカンをつまみ出すということだ。
「金八先生」ではその「腐ったミカン」である非行少年が転校させられている状況にいたく金八先生が激怒し、子どもには教育を受ける権利があるなどとあれこれ喝破する、というストーリーだったと記憶している。
私がこの「腐ったミカンの方程式」という言葉を知ったのは、中学のときの厳しい体育教諭がまさにこの言葉を口にしたからである。以前も書いた、書き初めで不正行為をしたプチヤンキーが、体育の時間にふざけていたことがあった。その際に厳しい体育教諭が彼をしかりつけた後、頭をポコッと殴った(いまなら一発アウトだが、当時はまだ体罰はよくないという雰囲気こそあれ、そこまでぎゃあぎゃあ言われる時代ではなかった)。
そのあと、体育教諭は「腐ったミカンの方程式」という言葉を知っているか、と切り出し、意味合いの説明をした。
私はその話を聞きふんふんと納得したものの「ということはあのプチヤンキーは腐ったミカンってことになっちゃうわけで、体育教諭はプチヤンキーに対してまあまあひどいことを言っているのでは…」と思ったのだが、別段プチヤンキーを擁護する義理もないので黙って体育教諭の話を聞いていた。
体育教諭の顔つきなどを見ていたが、おそらく「腐ったミカンの方程式」という言葉を使って授業をやりたかったのだろうな、と当時の私は直感した。
もっとも、そのために犠牲となったプチヤンキーは気の毒ではある。
大人になると子供に対して教え込むことも増える。まさにいまでも、白米など食料の投擲を繰り返す娘に悲しい顔をしてみたり、危ないことをしていればダメだといってみたり、逆に何かを運んでくれればありがとうと言ったりして、娘に「教育」らしきものを施している。
現代の社会には数多くのコンテンツがあり、SNSでも教育に関する発信は多い。そういうものに影響を受けて真似をしてみるのも時には有用なのだろうが、影響を受けすぎるのは危険な気もする。
それは、真似事をしようと思いすぎると、真似をすることに意識が向いてしまって子供を見ることをついつい忘れてしまうからだ。
目指すべきは、大人が「やりたい」教育や大人の価値観からみて「よくできた」教育ではない。教育を施すべき子供はいま私たちの目の前にいるのであって、目の前の子供の性格や時期を踏まえた上で「適切」に教育することが必要という、とても平凡な事実だけがそこにあるだけなのではないか。
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