見出し画像

自由と創作と無意味さと

全国紙で経済専門紙を謳う日本経済新聞で最も優れているのは、経済面でも政治面でもなく、「私の履歴書」をはじめとする文化面である。この事実について、日経関係者以外であれば異論の余地はないだろう。

1月4日の文化面に、こんな一節があった。田村友一郎さんという芸術家の「ATM」という個展に関するレビュー記事である。

人は無意味に耐えられない。この世界から意味のある物語を読み出そうとする。ルールを置くと、創意も恣意も動員して無数の物語が加速する。

「人は無意味に耐えられない」という一文が痺れる。自分の人生には意味があるとかこの行為には意味があるとか、私も含めて多くの人が考えがちである。
でも大概の場合はそういったものは思い込み、よくいえば「創作」にすぎなくて、客観的に意味を与えられる類のものではないような気がしてくる。

そう考えると、生きる意味とか死について考え、その答えを客観的なところに求める学者としての哲学者が精神を病んだり発狂したりするのにもある程度合点がいく。答えのないところに答えを求めてそれを日夜考える(これが哲学なのだが…)わけだから、そのうち頭もおかしくなるだろう。

ここまで考えてみると、人生は適当に自分で意義づけをして好き勝手生きていけばいいのではないかと言う気がしてくる。別に誰に言われるでもなく、人生という物語を勝手に「創作」すればよいのだ。

ちょうどこのあたりの捉え方は小説に近い。私の好きな開高健は「小説とは徒労」と言っているけれど、だいたいそんな感じだ。意味のないことを労力をかけてやるのだから、何を書いてもいいだろというのが氏の考えである。人生も同じようなものだろうと思う。

人は無意味なことに耐えられるほど強くない。「あなたの人生は徹頭徹尾無意味なので、ここで一生穴を掘って埋めるだけの作業をしていてください」と言われてやることになれば、次第にモチベーションは下がっていくだろう。溌剌と穴を掘って埋め続けられるひとは少ないし、無意味であることに耐え続けて生きるのはしんどい。

なら、その無意味さを逆手に取ってしまえばいいのではないか。人生が無意味であるならば、自分の勝手な創作で人生の意味を考えても世の中には何の影響もない。
極端な例だが、「ぱねてょ」という無意味な言葉に自分だけの意味を与えて誰に言うわけでもなく平然と過ごしていても、誰も文句は言わないだろう。それと同じようなものである。

ちょうど、先に述べたATMだなんだという「無意味」な芸術よろしく、「人生」と言う文字列の定義など自分で考えたらよろしいのだ。
それが恣意であっても創作であっても、無意味であるからこそ絶望的に巨大な自由がそこに広がっている。その自由を謳歌すればいいだけなのに、私たちはついつい無意味さに目が向かってしまう。もしかしたら私たちは無意味ではなく、自由すぎることに耐えられないのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!