有象無象

有象無象の中にいる誰でもない人。 思考整理の産物の吐き場を作りました。

有象無象

有象無象の中にいる誰でもない人。 思考整理の産物の吐き場を作りました。

最近の記事

私は絵に支えられているとずっと思ってきましたが、どうやら私の絵も私に支えられているみたいです。言葉にするとこうも当たり前なように聞こえるのに、私はこれに気付くのに一生をかけました。おかしな話です。

    • 生きててえらい

      「生きててえらい」と自分を励まそうとしたら、「えらくなくてもいいのでもう生きなくてもいいですか?」という気持ちが反動的に湧いたことがあります。ここで勘違いする人はいないと思いますが敢えて言うのであれば、「生きてるだけでえらい」に対して「なめられてる」と感じてイラっとする人も一定数いる事を分かった上でも、私は本当に「生きててえらい」と心から思える時に言葉にする事はとても大事な事だと思う側の人間です。でも、本当に「えらいとかどうでもいいので楽になりたい。それを許してくれない責任感

      • 心情もリソースも環境も原動力も何もかも違うけど、「描きたいものが多すぎて時間と身体が足りない」が2ヶ月以上も続いてるのは学生時代以来。 現時点ではもう5ヶ月も続いてて驚愕。 正直まだ自分の事を信用しきっていないけど、続く限りこの状態を大事にしたいなと思ってる。いっぱい描くぞ〜

        • 創作と解離と

          「強弁する時ひとは解離するから、自己主張した後は落ち込むのは当たり前」という言葉を見かけたんですが、自分の中ですごくしっくり来るものがありました。 クリエイターとしての自分は、制作経緯が難産な作品ほど、完成した後に「わあ、完成した…!」と一瞬舞い上がってから、急にスーパー自己否定タイムに落下する事が割とあるんです。 薄々理解してはいたので、その言葉を読んだ時すぐ腑に落ちました。 自分も創作をしてる時は自然と心が解離してるんだと思います。 作品に打ち込めば打ち込むほど、

        • 私は絵に支えられているとずっと思ってきましたが、どうやら私の絵も私に支えられているみたいです。言葉にするとこうも当たり前なように聞こえるのに、私はこれに気付くのに一生をかけました。おかしな話です。

        • 生きててえらい

        • 心情もリソースも環境も原動力も何もかも違うけど、「描きたいものが多すぎて時間と身体が足りない」が2ヶ月以上も続いてるのは学生時代以来。 現時点ではもう5ヶ月も続いてて驚愕。 正直まだ自分の事を信用しきっていないけど、続く限りこの状態を大事にしたいなと思ってる。いっぱい描くぞ〜

        • 創作と解離と

          音楽に救われた話

          楽園の君/österreich - 水槽 (Arrange cover) 自分が一番辛かった時、行き場を絶たれて涙腺から溢れ出る報われない感情たちを止めることができずにいて、どんな小さな光でも傷口に触れてしまいそうで怯えながら世界から心を閉ざしたその日、唯一傍にいることを許したのはこの曲だった。 号泣する事以外本当に何もできなくて、動けなくて、無理をしたら自傷行為に走ってしまいそうで、自分の感情ののしかかる重さに殺されそうになりながら、なぜかこの曲だけをループで流すために

          音楽に救われた話

          幸せ恐怖症

          自分はきゅうりが大苦手だったんです。間違って食べてしまうと吐いてしまうぐらい身体が拒絶する。でも味覚障害になってからは、特別な拒絶反応もなく食べられるようになったんですよね。食べ物全般への関心が極限まで薄れてしまうと、好き嫌いもなくなるみたいです。何を食べても苦痛だけど、特定の食べ物への嫌悪感もなくなるから、この状態に順応さえすれば逆に良いかもしれないと思いました。 思春期の過ごし方の影響で、自分の自己防衛本能はそうやってストレスを軽減するために悪い境遇にすぐ順応しようとし

          幸せ恐怖症

          選択の自由

          今の自分がいても、過去の自分には死を選ぶ権利があった事を否定するような考え方はしたくない。 もちろん、過去の自分が生を選んだおかげで、今の自分が存在していて、出会ってよかった人々や作品に出会えて、本当によかったと思っている。 そして過去に自分が経験した事を創作の肥料にする事ができて、満足もしている。 それでも、もし当時の自分にメッセージを送る事ができるとしても。 「あなたが今経験している事は貴重な経験だ」とは、決して、言いたくない。 あの子にとって、今の自分は数多ある可

          選択の自由

          また明日

          また明日。 学生の頃は、さりげなく一日の授業が終わった時に友達や先生に言っていました。何の変哲もない、ありふれた言葉で、もはや口癖に近くて全く特別感のない言葉でした。 社会人になってからは、かれこれ言う機会がなくなりました。まず、明日も会えると約束されている人は会社の同僚ぐらいしかいなくて、「また明日」ではなく「お疲れ様でした」とか「先に失礼します」とかの方が口に馴染みます。 そんな中、初めて「また明日」の素晴らしさに気づいたのは、オタク活動で二日連続イベントに参加した