生きててえらい

「生きててえらい」と自分を励まそうとしたら、「えらくなくてもいいのでもう生きなくてもいいですか?」という気持ちが反動的に湧いたことがあります。ここで勘違いする人はいないと思いますが敢えて言うのであれば、「生きてるだけでえらい」に対して「なめられてる」と感じてイラっとする人も一定数いる事を分かった上でも、私は本当に「生きててえらい」と心から思える時に言葉にする事はとても大事な事だと思う側の人間です。でも、本当に「えらいとかどうでもいいので楽になりたい。それを許してくれない責任感だけで仕方なく生きてる」という時はあります。それを強く自覚してる時、「生きててえらい」という言葉は自己肯定感に繋がらず、逆に希死念慮を強調してしまう、そういう心情も確かにあるんです。

…と、ここまで述べた上で、実は私が言葉に残そうとしてこの文章を書き始めたのは「生きててえらい」って言うべき言葉かどうかを議論するためではなくてですね、「自分を褒めるという行為の賜物」を最近になってやっと実感したことについて書きたいんです。

うつ病と闘ってた時、「小さな事から自分を褒める習慣を作ろう」と主治医や友人に言われました。朝起きれた。ご飯食べられた。お薬飲めた。一時間、数分間だけでも、自己否定をしなかった。自分のために何か良い事ができた。などなど。健康な人にとっては取るに足らない当たり前な事ばかりなのかもしれないけれど、当たり前な事ができない状態だからこそ、ちゃんと自分を褒める事で、自己認識を少しずつ変えていくのが大切だと。最初は意識してやる必要があるけど、段々習慣化すると、いずれ無意識に自分を肯定できるようになるのだと。そう教わったんですね。
ハッキリ言って、最初は真っ平信じる気になりませんでした。そりゃね、「自分は幸せになってはいけない」思考が何よりも強かった時に「幸せになる方法」を教わっても…という所はあるんです。自分の気持ちを騙してまで自分を褒めたりなんかすれば、また本心を見失って解離を起こして歪んだ人格を生んでしまうんじゃないの?って直感的に思ったんです。正直今でも「それはその通り」と思う自分もいます。なので、いかにそれを人格の強制にならないように「無理のない範囲で」できるか、そのチューニングから入って、試行錯誤を繰り返して、冒頭に書いたような思いを何百回も繰り返しながら長いスパンで頑張ってたのです。
その決して一本道ではない営みを脱線せずに言語化できるほどの自信がないので、基本的な事だけ敢えて書こうと思います。無理して前向きになっても意味がないと今も心から思うし、本当に自分は最低だなって思う時に無理して反論しなくてもいいと思います。ただ、「自分は健康になった方がいい」と思える理由を一つでも見つけられたら、それが自己肯定の礎になるので、大事にしようと心掛ければもう上出来です。私の場合は、先ほど述べた状態から「自分を褒める事って大切なんだな」とちゃんと納得できるまでは少なくとも2年間以上はかかりました。

そしてさらに幾ばくかの年月たって今、私が趣味をちゃんと心から楽しめるようになったのは、あのころ些細なことから自分を肯定する練習を積み重ねてきたからなんだなぁと、ふと気づいたんですね。
私の趣味は絵を描くことなんですが、「白いキャンバス」という現実に私の脳内にある「情緒」という理想をぶつけて、試行錯誤で現実と理想に対話をさせて、色んな化学反応を経て「作品」が生まれるというプロセスに私は価値を見出しているんです。例え想像上の人物や世界観を描いていたとしても、現実と理想の対話の中にはどうしても自己認識が深く関わってしまうんですね。これに関しては創作と解離と』という備忘録でもう十分に詳しく語ったと思います。
私は作品に魂を注いでいます。それ故に、その作品を愛する事は、自己の肯定、自分の中で自らの居場所を作る、という事をも意味する事なんだと思います。
「絵が楽しいと思える」。そこには、私が私自身を幸せにする絵が描けているという意味合いが含まれているんだと最近気づきました。その絵を描いた過去の自分に感謝ができる。そしてまた未来の自分に期待ができる。その好循環が成り立ったのは、自己肯定の土台が既にできているからなんだというのが、最近の気づきであって、この備忘録で記録しようと思ってることです。

他人の悩みは私には分かりません。他人が自分を肯定できる理由、自分を否定してしまう理由、人の数だけ種類があるので私の備忘録が誰かのためになるのか呪いになるのかは、私には分かりません。多分、唯一私に分かった事があるとしたら、「えらくなくてもいいのでもう生きなくてもいいですか?」と思いながらも生きてる人はみんなもう十二分にえらいという事だけです。


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