欠けたネイルはきみのためにあったのだと、蝉の声が反響した
洗濯洗剤と、アイスクリームと、お惣菜を持って、灼熱のアスファルトを歩いた。
駅から徒歩20分。私にとっては遠いし長い道のりだけど、彼にとってはそうじゃないらしい。暑さと陽射しで買い物袋が一層重く感じた。
家賃4万7千円の白いマンション、その202号室に、それはある。
いやに足音の響く階段を上って、狭い廊下(と呼べるのかもわからないくらい、完全に外である)を数歩進む。ドアは、鍵を開けてもらっていたのですんなり開いた。冷房で冷えた空気が身体中に伝う汗を蒸発させ、たちまち体温を下げた。
わたしの隠れ家。わたしたちの、ひみつ基地。
私は密かに、ここをそう呼んでいる。
親の支配から逃れる為にここへ転がり込んだ私と、都会に来たくて田舎から抜け出してきた彼は、なんだかちょっと似ていた。
けれど私と彼は、逐一何かが違った。好きな食べ物も、曲も、よく見るテレビ番組(そもそも彼はテレビを見なかった)も、ファッションセンスも、目玉焼きにかける調味料も、家庭環境も、生まれ育った土地も、何もかもまるきり違うわたしたちが、どうしてこんなに心地よく一緒に居れるのか、わからなかった。
ただ、抱きしめあった身体のかたちがぴったりだったとか、手を繋ぎたいタイミングが一緒とか、においが好きとか、そんな程度だ。
ひみつ基地では、一緒にYouTubeを見たり、ゲームをしたり、ごはんを作って食べたりした。それで決まってエッチをした。
何も抵抗は無かった。自分が処女じゃなくなることも、裸になることも、イく瞬間を付き合って数週間の男に間近で見られることも。
結論から言うと、彼のは入らなかった。お互い、大きいのと狭いのとで、条件が合致しなかった。
そのあとはたまに気が向いた時に指で慣らしてくれていたが、1本で精一杯だった。2本目が入ると痛いし、指を抜く時も別の意味で逝きそうなくらい激痛だ。
だからずっと私が彼をイかせて終わりである。私は前戯、上だけ。たまーに下、イかない。彼いわく、女の子イかせるの難しい、らしい。きっと最中の雰囲気を壊さないためにも、あまり下だけにがっつきたくないのだろう。
今日もいつもみたいにYouTubeを見ていたらちゅーをせがまれ、いつもよりもずっとちゅーして、唇か、舌か、自分のか、彼のか、もわからなくなったくらいにベッドに倒れ込んで、そのまま成り行きで触って、ズボンとパンツを下ろして、咥えて、舐めて、裏筋でイった。
珍しくすぐに眠ってしまったので、私は全ての処理をした。仰向けにうとうとする彼に跨ったままでいると、ふいに蝉の声が聞こえた。けたたましい。
東京で、駅から徒歩20分で家賃5万以下。それなりに、壁とドアが薄いマンションだった。
彼の体温をぜんぶ感じたそのあとには、なんでもできちゃう気がした。無敵だと思った。
親、地元、自己、金、欲、数え切れぬきたないものに丸腰で戦う18のわたしたちを、夏の音が包んでくれた。
そしたら、なにかの衝動に突き動かされて、疲れ切った彼を思わず強く強く抱きしめて耳元で、大好き、離さないから、離れないでね、と言った。忘れられてもいい、嘘でもいい、だからどうかこの瞬間だけは、本物であってほしい。私がいなくなったって世界は困らないけど、あなただけは困ってほしい。お金なんて、余裕なんてなくたって、死にかけたって、本物の時間をずっとずっと一緒にすごせば、いつか、ふたりで永遠になれる。ふたりが世界になれる。わたしはそれを信じている。