春になってもここにいるね
彼女はわたしの鼻先に手の甲を近づけた。
「香水、もう消えてるかもしれないけれど」
匂いとくっついた記憶は色濃くて離れない。すでに知っているいつもの空気を吸い込んで、窓の外を見る。季節は三度目の春を迎えようとしていた。
無意識ながら爪にはピンクが棲みつき、髪は嬉しそうにカールを受け入れる。全身のすべてが春の訪れを喜んでいた。
春は、出会いとともに別れがあるから好きだ。長い時間をかけて築き上げた関係が、ぽっと出の誰かに奪われる瞬間を目の当たりにする。同時にわたしも突然現れた誰かの生活に飛び込んだりして、目まぐるしくて好きなのだ。
忙しいほど生きている実感が湧く。多くの人間と関わり、複数のことをこなして、毎日少し疲れているくらいのほうがいい。たったひとつに絞り込むことなどできないのだから、いっそ何事もまとめて抱きかかえてみることにした。
やさしい人にはじんわりと心配をかけて、さみしい人を可愛がる。全員に対してそれぞれのわたしがいて、すべて寄せ集めたとしても、わたしにはならない。いつだってわたしは限りなく球に近い多面体だし、不可侵の領域を保っていたい。
依存先は多い方がいい。すべてをさらけ出すことはできないから、誰かのいちばんになることはやめた。きっとみんな、春になればわたしの元から離れてしまう。手のひらに収まるすべての人間を平等に愛して、受け入れ、追いかけたりはしない。
出会いも別れも享受しているから、春が好きだ。
わたしはいつまでもここにいるから、記憶の中で忘れないでいて。渋谷の交差点を歩いたとき、ふとすれ違った人の匂いで思い出すような存在にして。
おわり
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