
歩き方なんて忘れるぐらい、胸の鼓動を感じたい。
今日の文章の後ろに、今日の詩を載せています。購読して、最後までよかったら読んでね。
最近では、もっぱら絵にハマっている。今日は新宿の世界堂で画材を買いに行った。曖昧な世界が好きな自分にとって、何でも書いていいと言われることは、ある種の人生のご褒美的なものだ。水彩画を描いたり、クレヨンで抽象画を描いたりしている。
元々、絵は好きではなかった。自分ができることなんてないし、絵なんて描いても無駄だと思っていた。それでも、僕は絵画にハマっている。
光っている人生の中で、ちょっとした木陰が必要なんじゃないかと、僕は考えている。例えば僕だったら、ずっと文章を書いていては、つまらなくなってしまうから、表現の捌け口を作っておかないといけない。このことに気づいたのは、ちょうど一年前ぐらいだろうか。写真だけだと自分が飽きることを悟ったため、文章を書いたり、仕事を始めたりなどした。
心が決まっていない状態は、さぞ不安であると思う。小さな人生の中で、点を打つことは容易ではないし、一回止まったところから、何も道標がないままススメと言われたら、それはそれで困る人も多いのではないだろうか。上手いとか、下手くそとか、そういう基準で物事を考えてしまっていることは、今の僕たちにとっては、少し傷になっている気がする。
最近、仕事をしている友達と話すことがあった。その友達は、自分の最大の喜びは成長であり、何か目標を達成しないと何もやった気になれない、と言っていた。
ものすごい寂しい考え方だと思った。人生が百年もあるのに、その人生にわざわざ目標をつけて、区切りをつけていくなんて、そんなこと何でするんだろうと、思わざるを得なかった。でも、かくいう僕も、社会人時代はそうだった。答えがないもの、自分が答えに向かっていないことは、怖かったことを覚えている。
曖昧さを愛することは、自分を信じることに似ていると思う。世間一般でいう成功ではなくて、自分が幸せだからいい、自分が納得しているからいい、という考えを持つこと。これは、僕が芸術活動をする上で、大切にしている価値観。今にも崩れそうな世界、明日何が起きるかも分からないのに、杭を立てることなんて、僕には出来ないと思う。
青い空、どこまで続いているかなんて分からないのに、僕たちは1と0の世界で生きている。なんか、とても寂しことだと思う。限りない世界が、1と0の間には広がっている。それなのに、曖昧さを愛することをしない。とても、もったいないことだと思っている。寂しさの単位はきっと、砂埃のように永遠と吹き荒れているのだから、少しの水を含んで、それを乗り越えなければいけないのではないかと思う。






僕が信じていることは、ない。そういえば今日、カフェの隣の席で、宗教勧誘を受けている女性が泣いていた。きっと、感極まって泣いてしまったのだろう。何を信じるかは自由だが、何でも正解なんてない。この世界に、一つも正解なんてない。限りない人生の中で、限りない自由を、僕たちは今生きていることを、忘れることなんて、僕には到底出来ない。
今日の詩
私のことを考えている人がいると、何だか気持ちが楽になるのは何でだろうか。花が咲いているのをみると、寂しさが和らぐのは何故だろうか。どこにも行かないって言われると、ホッとするのは何故。忘れていた風を思い出したかのように、掻き鳴らしたドラムをもう一度鳴らすように、僕たちは、人生に杭を求めている。嘘でもいいから、笑いかけてくれよ。何もかも決まっていることなんて、僕にとっては、一人きりで歩く夜道と同じなんだ。歩き方なんてどうでもいいから、あなたと一緒にいる胸の鼓動を、感じていたい。
花の色は知らないし、寂しさの単位もないのに、僕たちは馬鹿みたいに、すれ違っている現実、どう捉えるかなんて自由なことに、無理やり何かを当てはめている。そんな気がする。
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