銘菓『ひとつ鍋』と『マルセイバターサンド』の由来
2年ほど前に“千秋庵“について発信しました。その後、新しいお菓子が販売されたり、新店舗も開設されていますので改訂版を再発信します。
『六花亭』
言わずと知れた北海道を代表するお菓子メーカーです。
この『六花亭』が、同じく菓子メーカーである『千秋庵』(帯広)から派生した企業であることを北海道出身者の私は、つい最近まで知りませんでした。
また、『六花亭』の人気菓子である”マルセイバターサンド”と”ひとつ鍋”の名前は、明治時代に十勝を開拓するために移住した『晩成社』に由来することも新たに知った事実です。
今回は、『六花亭』と『千秋庵』の歴史そして”マルセイバターサンド”と”ひとつ鍋”のネーミングに関するエピソードなどをご紹介します。
千秋庵は、一時期、道内に最大7店舗を構えていました。お菓子の販売競争において、各店舗の関係にヒビが入るようなことはありませんでした。各店の共通する商売のモットーは、”おいしい菓子を消費者へ提供する”という姿勢でした。
これは、同族意識から派生しているともいえます。当時、各店主の会である「千秋庵会」という例会があり、ここでも結束を強めていたのです。
店主たちの間では、「同じ根から分かれた千秋庵が、少なくとも北海道内では相争うことのないように」と暗黙の了解がありました。
しかし、これが徐々に”足かせ”となっていくことになります。
千秋庵総本家
『千秋庵』は、函館が発祥です。
創業者となるのは、佐々木吉兵衛。生家は、佐竹藩(秋田藩)の下級武士で倉番をつとめた家柄。
吉兵衛は、1860年(万延元年)、22歳で北海道・函館に渡り、お菓子売りを始め、函館港で働く人々に甘い物を立ち売りしたのが始まりとされます。店は繁盛し、やがて1887年(明治20年)近くになって新店舗を構える頃には、道内有数の菓子店として有名になっていました。
しかし、家業を伸ばしたのは、養子である二代目佐々木吉兵衛でした。
彼は、1876年(明治9年)東京の中江兆民の塾でフランス語を学んだ異色の存在。
しかし、函館千秋庵は、三代目佐々木吉兵衛のときに没落します。彼は東京から和菓子名人といわれた松田咲太郎を招き、四代目を継がせます。
松田は、大正時代に”どら焼き”の販売、昭和の初めに”元祖山親爺”の製法をあみだすことになるのです。
結局、後継者がおらず、千秋庵総本家は、2017年(平成29年)に岐阜県の製菓会社「鈴木栄光堂」に買収され子会社化されてしまいます。
現在、実質的な千秋庵は、札幌千秋庵にしか残っていないことになります。
2019年函館以外では初めてとなる直営店「千秋庵総本家 東京交通会館店」(東京交通会館B1)がオープンしました。
小樽千秋庵
1894年(明治27年)千秋庵総本家二代目佐々木吉兵衛の娘婿・山中邦吉が小樽に店をかまえ(千秋庵初の”のれん分け”)『小樽千秋庵』が誕生。その後、山中の借金がたたり、当時の後志電気会社に稼業を引き渡すことになり、小樽千秋庵は、1995年(平成7年)廃業。
旭川千秋庵
1919年(大正8年)『旭川千秋庵』が千秋庵総本家より独立。
しかし、2008年(平成20年)廃業。
札幌千秋庵
小樽千秋庵に1919年(大正8年)、山中邦吉の招きで工場長になったのが岡部式二です。
小樽千秋庵で修行した岡部が、1921年(大正10年)に、”のれん分け”したのが『札幌千秋庵』
同社は、2021年(令和3年)9月5日に創業100年を迎えます。
1974年(昭和49年)『ノースマン』を販売。横浜中華街で販売されていた「パイまんじゅう」にヒントを得たといわれています。
「ノースマン」は、北海道産の小豆を使用した特製の餡をパイで包んで、甘さをおさえた、しっとりとした口当たりのお菓子で札幌千秋庵の代表的なお菓子として道民はもとより観光客にも親しまれています。
2022年(令和4年)10月、「ノースマン」を若い世代にも、おいしさを伝えようと『生ノースマン』が販売されます。
北海道産の生乳から作られる生クリームをパイに注入。ミルキーでしっかりとコクのある生クリームを入れることで親しみやすいテイストになり、従来の「ノースマン」とは違った食感・風味を味わうことができると、販売直後から大人気となります。
この結果、従来のノースマンの注目度も上昇し、両者を合わせた販売個数は、半年で約198万個を売り上げたといいます。
現在でも年間120万個(生ノースマンのみ)を売り上げます。連日、行列が絶えない同社の人気主力商品です。
販売場所は、大丸札幌店地下1階”ほっぺタウン”内「ノースマン 大丸札幌店」と2022年(令和4年)12月から新千歳空港の2カ所(千秋庵・新千歳空港店と北海道本舗総合土産店)で販売されています。
2024年11月、札幌東急百貨店に工房を併設した新店舗「札幌千秋庵さっぽろ東急店」をオープン。ここでは、東急店限定商品として「やわ餅」を販売。名前通り、もっちりして、とろける口溶けが大人気で、こちらも連日、行列ができています。餅の中のこし餡も美味。
さらに12月、北海道民に1930年(昭和5年)の発売以来、94年間、愛され続けている銘菓「山親父」からパウダースノーチョコレートクッキー山親父「ゆきだるま」というカワイイお菓子が新発売されました。
北海道民なら、ご存知だと思いますが、「山親父」のTVCMソングが26年ぶりに2024年、復活しました。歌っているのは、函館出身の歌手YUKIさんです。明るく、軽快な歌声を聴きながら山親父を食べたいと思います。CM中のイラストも熊がシャケを背負っているカワイイものです。
網走千秋庵
1929年(昭和4年)藤田泰一が千秋庵総本家へ弟子入り。その後、一人前として認められ、まだ千秋庵の店舗がなかった網走に千秋庵総本家より独立(のれん分け)。『網走千秋庵』を開業し現在に至ります。
先代が46歳で死去すると2代目となる長男・泰宏が帯広千秋庵に弟子入りする。10年後、網走に帰郷し和菓子以外に帯広で習得した洋菓子も商品に加え、店が再起動する。現在は、泰宏の妻が3代目として引き継いでいる。
3代目は、元々、帯広千秋庵で洋菓子作りを担当していたプロの職人です。
釧路千秋庵
1934年(昭和9年)千秋庵総本家より独立(のれん分け)。
『釧路千秋庵』が開業。1990年(平成2年)札幌千秋庵と合併しました。
帯広千秋庵
1933年(昭和8年)7月5日に札幌千秋庵より独立(のれん分け)したのが『帯広千秋庵』。1937年(昭和12年)創業者・岡部勇吉(札幌千秋庵 岡部式二の義弟)の病気が重くなり事業を継続できなくなり、当時、札幌千秋庵で働いていた甥・小田豊四郎(1916~2006/当時21歳)に経営を任せます。
しかし、1939年(昭和14年)経営を引き継いで2年後、経営不振がどうにもならない状態になります。
そんな時、札幌の塚本食糧興業社長より当時のお金で500円(現在の金額で約200万円)を借り、砂糖を購入。戦時中の物価統制令で甘い物が入手が難しくなったが砂糖のストックがあった帯広千秋庵はお菓子を販売、すると、朝早くから店先に行列ができ、事業は奇跡的に回復します。
戦後、帯広では、甘味に砂糖を使わないお菓子が多く出回ります。
値段の高い砂糖を使うより人工甘味料(サッカリンなど)の方が利益が多くでるからでした。
しかし、小田豊四郎は、”一番良い原料でおいしい菓子を作る”にこだわって砂糖の使用を続けます。
この小田のお菓子作りに対する姿勢は、周囲から信頼を得ていくことになります。
1952年(昭和27年)、帯広市から式典(帯広開拓70周年・帯広市制試行20周年記念式典)の記念品であるお菓子のすべてを任されます。
晩成社と『ひとつ鍋』
小田豊四郎は、帯広の開拓をお菓子で表現しようと考えます。
彼は、依田勉三の資料(『北海道 晩成社・十勝開拓使』萩原実著)を読みあさります。その中で「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」という、自分たちも豚のエサと変わらないものを食べて生き延びている状況をうたった句を知ることになります。
小田は、この依田勉三の句に心を動かされ、『ひとつ鍋』という”最中(もなか)のお菓子”を作り上げます。このお菓子を式典で配ります。
当初、上品なイメージを持ちやすいお菓子には、なじみ難いと思われがちな「豚」にちなんだネーミングでしたが、式典終了後も、この商品を求めて店頭を訪れる客が現れるようになったのです。
やがて、『ひとつ鍋』は、千秋庵始まって以来のヒット商品になり、1日10万円の売上を記録します。店頭には、行列ができるほどになり、現在でも北海道民や観光客に愛されています。
1968年(昭和43年)昭和天皇も北海道百年記念祝典の際に帯広市を訪れ、帯広千秋庵の「ひとつ鍋」を買い求めています。
銘菓「ひとつ鍋」は、お鍋をかたどった最中(もなか)の中に小さな餅が2個入っており、小倉あん、こしあん、白あんの3種類があります。
日本初の”ホワイトチョコレート”販売
1967年(昭和42年)、小田豊四郎は、ヨーロッパ旅行に出かけます。
現地では、どんな小さな店でもチョコレートを作っていることに目を見張ります。"日本にもチョコレート時代がくるだろう”と予測していたといいます。
当時、日本では、チョコレート製造は、大手菓子会社しか取り扱っておらず簡単には手を出すことはできませんでした。
帰国後、帯広に戻り、小田は、チョコレートの開発に取り掛かる。
不二家の研究室で長くお菓子の研究をしていた松田兼一(不二家顧問)にチョコレート製造の指導を受けながら、工場を建設します。
1968年(昭和43年)黒いチョコレートとともに、”ホワイトチョコレート”の作り方も学ぶのです。
しかし、出来上がったホワイトチョコレートへの顧客の反応は、良くありませんでした。手にとって眺めてみるものの、結局は、馴染みのある黒いチョコレートを買って帰る状況でした。
しかし、1970年(昭和45年)から旧国鉄が始めた「ディスカバー・ジャパン」の旅行者増加キャンペーンや1972年(昭和47年)の札幌オリンピックが開催された頃から、観光客の間で北海道旅行がブームとなり、”大雪山の雪をイメージさせるホワイトチョコレートが1971年(昭和46年)夏から売れ始めます。
これまでにない味も評判となり、発売して3年も経過するとホワイトチョコレートは、爆発的な人気商品となるのです。
ブームを担ったのは、若者でした。大きなリュックを背負った、当時、「カニ族」といわれた若者が道内各地に出没します。
ユースホステルは満杯となり、鉄道駅に、ごろ寝するカニ族も出現しました。
十勝でも旧国鉄広尾線の幸福駅の切符:「愛国」駅から「幸福」駅までの区間を買ってホワイトチョコレートともに全国に持ち帰ったため、旅行雑誌などで紹介されるようになります。
ホワイトチョコレートの販売が、1972年(昭和47年)には軌道に乗り、帯広千秋庵の売り上げの3分の2がチョコレートで占めるようになると
主力であった和菓子と違い、賞味期限が長く収益性も高いチョコレートの販売は、これ以降、六花亭発展の基礎となっていくのです。
『六花亭』誕生と”マルセイバターサンド”
ホワイトチョコレートが売れたことを契機に、小田豊四郎は、いろいろ悩みます。
ホワイトチョコレートは順調に売り上げを伸ばしていましたが、その人気の高まりとともに、札幌で類似品が出回るようになります。
札幌に進出すれば札幌千秋庵の商圏を侵害することになる。しかし、大消費地の札幌で類似品が流通するのを放置することは自社の経営にとって大きな痛手となる。
このジレンマから逃れるため、札幌千秋庵に対し札幌進出を申し入れますが調整は難航(本家である千秋庵総本家からは許可をもらう)。
このため、別会社を作ってホワイトチョコレートを製造販売するため、まず新千歳空港で売り出しましたがが、商圏を侵害されたとして札幌千秋庵が商標権の使用中止を求めてくる事態になったのです。
結局、悩んだあげく、自分のお菓子の世界を作っていくために”千秋庵”という名前を離れて(のれんを返上)、独立することを決意するに至ります。
1977年(昭和52年)5月、独立したお菓子屋の名前は、”北海道を代表するお菓子屋に”という思いを込めて、雪(雪の結晶)の別名である『六花(りっか)』という文字を掲げて『六花亭』とします。
「りっか」は読みにくかったので「ろっか」として下に”亭”を付けた。社名は、奈良東大寺管長・清水公照老師が命名しています。
小田豊四郎が「帯広千秋庵」の”のれん”を返上すると、帯広市に千秋庵がなくなったため、「札幌千秋庵」が帯広市に進出します。
名前を変更したばかりの「六花亭」は、北海道随一の「札幌千秋庵」と対決することになるのです。しかし、帯広市民は六花亭を支持しました。坂本直行の包装紙は、そのまま使用していたので、観光客の売り上げも落ちることはなかったのです。
この社名変更記念のお菓子として発売されたのが『マルセイバターサンド』です。
マルセイバターサンドのパッケージは、とても個性的です。
赤色が銀紙に張り付き、そこに蔦(つた)が絡まっているかのような不思議な植物風文様が描かれています。中央には、円が描かれ、中に大きく「成」の文字が印字されています。
この”マルセイマーク”の両脇に「バタ」という古めかしいカタカナ。レトロだけど斬新でオシャレです(晩成社が北海道で初めて商品化したバター「マルセイバタ」のラベルを参考にしている)
その銀紙をむく。北海道産牛乳100%で作られたバターと日本初のホワイトチョコレートを練り合わせた、たっぷりのクリームに芯を残さないためにラム酒に浸されたレーズンを混ぜ込み、また、十勝ワインと同じ原料を用いた十勝ブランデーを隠し味に、これを長方形のビスケットで挟んでいます。バター、ホワイトチョコ、レーズン、ビスケットの究極のカルテット(四重奏)です。まさに”こだわりのスイーツ”といえると思います。
マルセイバターサンドは、とにかく味わいが濃厚。クリームはコッテリでまったり、甘いというより甘ったるい。しかし、そこにレーズンのスパイシーな酸味が現れ、甘さを刺激して、かすかに湿り気を帯びたビスケットの味がクリームのずっしりとしたコクを受け止めている。
花柄包装紙の誕生
小田豊四郎は、お菓子の包装紙は、はがし取られたり、丸めて捨てられるというのが一般的な考え方でしたが、捨てる前に、眺めてくれる包装紙を作りたいと考えます。
現在、可愛らしい花々が描かれている「六花亭」の包装紙。
包装紙は、十勝の六っの花をモチーフにしています。
その花々は、
「①エゾリンドウ ②ハマナシ(ハマナス) ③オオバノエンレイソウ ④カタクリ ⑤エゾリュウキンカ ⑥シラネアオイ」
が描かれている。
この包装紙は、1961年(昭和36年)秋から帯広千秋庵が使い始めます。
この包装紙のデザインをしたのが画家・坂本直行です。
彼は、幕末の志士である坂本龍馬の甥・直寛の孫にあたり、北海道・十勝で開拓農民として生きたあと、画家に転身しています。
花柄の包装紙は、当時、どこの菓子店も使用していなく、評判を呼ぶことになります。
5色で印刷した花柄の包装紙は珍しく、社名を書き添えなくとも、花柄から帯広千秋庵と人々に認識されるようになったことは、まさに現代のマーケティング戦略にも通じるものです。
包装紙は、帯広千秋庵のトレードマークになり、現在は、「六花亭」包装紙としておなじみです。
不思議な縁
千秋庵の発祥は、千秋庵総本家。その創業者は、佐々木吉兵衛で佐竹藩(秋田藩)藩士です。私のご先祖さんも佐竹藩士であり、明治維新後、函館を経由して開拓使で働いています。
さらに開拓使のあとは、十勝の大津(現・豊頃町)にあった漁場で働き、アイヌ民族との交流もあった。
まさに晩成社の依田勉三が十勝に入植した頃と同じ時期です。記録は見つかっていませんが、面識があったことは間違いないと確信しています。
私は、これらの事実に不思議な縁を感じるのです。ますます、”クネクネしながら歴史という沼にハマっていく"想いです。
参考・引用文献
□続々・ほっかいどう百年物語 STVラジオ著 2003年
□ひらけゆく大地・上~開拓につくした人々 北海道発行 1966年
□開拓の群像・上 北海道発行 1969年
□北海道の歴史 榎本守恵/君尹彦 著 1971年
□現代にの残る 北海道の百年 読売新聞・北海道支社編 1975年
□どさんこソウルフード君は甘納豆赤飯を愛せるか!宇佐美伸著 ㈱亜璃西社 2007年