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世俗主義の社会で人間学としてのストレスケアは成立するのか

 キリスト教人間学・仏教人間学・東洋思想人間学など「人間がどのように生きればよいか」という人類の精神的遺産は世俗の現実的な世界から発見されたのではなくて人間を超えた聖なる領域に根源を持っているのではないか。

 ストレス学説を提唱したハンス・セリエは、科学の発展とともに、神への信仰が弱まり、伝統的な権威がゆらぎ、人々の中に暴力、薬物乱用、無目的な破壊的攻撃性が広がり、法律や神の法典が軽視されてきたと危惧していた。

 そのうえでセリエは、ストレス研究によって「自然という永遠の法則」を明らかにして、人々に広く伝えていくことで人間性に影響を与えていける可能性があると期待していた。

 私もセリエの求めたところを目指して、人間に関する科学的知見を参照しながら新しいストレスケア人間学を構築しようとしてきたが一度は挫折した。
 それは多様な生き方が認められるべき現代社会にあって、誰にでも通用する生き方の基準のようなものが提示できるはずがないと思ったからだ。

 その後は臨床人間学という立場で相談に来られる方の生き方の再構築について本人の希望を伺いながらオーダーメイドで協働作業をするしかないと考えて取り組んできた。

 しかし、様々な経緯を経て大幅に考え方の枠組みを変更することになった。
 ① 人間学でいうところの「いかに生きるか」というフィールドを「ライフ」(LIFE)とした。
 これは各自に特有のものであり、生命、生活、人生という3つの階層が合成されたものだ。
 ② ライフは「体験」の一元論であり心身二元論から離れている。
 ③ 自己、他者、環境、身体、心なども「体験」の一部に過ぎないとする。
 ④ 体験は自分以外の様々な力によって生成されているが、主体性によって働きかけることのできる自由度が残っている。
 ⑤ ここでの人間学とはライフ(生命・生活・人生)の働きについて知ることと、主体性をつかって全体の均衡にむけての制御を訓練することだ。
 ⑥ ライフに関する理解が足りず、主体性がうまく働かないと、それぞれの階層に歪みとしてのストレスが生じて様々なサインが現れる。
 ⑦ このサインを読み取ってさらに主体性の制御性を高めていくことが大切になる。
 ⑧ 心身二元論に立ち、個人の心理に問題を発見して改善していく心理学の立場とは異なる。むしろ、生命、生活、人生に広がる問題を個人の心の問題に誘導してしまうことで主体性の自由度を低下させていると批判している。
 ⑧ ライフは各自に特有のものではあるが、そこには共有できる知見があり、むしろお互いの主体性を発揮していく関わりの中で成長していける。
 ⑨ 生命、生活の階層は現実的・科学的に明らかになった知見を基礎とすることが可能だが、問題は人生の階層の知見は古来の聖なる道とされたものと符合する内容にならざるを得ないことだ。

 つまり、世俗主義の社会にあっては、自然の知恵、社会関係における知恵としてのストレスケア人間学は許容されたとしても、人生の階層における知恵を提示することには困難がある。

 現代社会で一般の方に宗教的価値、道徳的価値を伝えようとしても世俗主義の社会では結果としての快不快・損得・現世利益に訴えざるを得なくなり、聖なる力を失ってしまうことになりかねないことと同じ問題を抱えている。

 今回はTwitterで、人間により「生き方の探求としてのストレスケア」が可能なのかというお尋ねを頂いて考察してみたが、私にはまだ答えがないことに気づいた。

 人生の階層では結果が分かったから行うのではなく、この結果の世界である現実の背後にあって働いている不可知の力を信じて取り組むことになる。
 
 自ら「道」に進むことを「決心」し、取り組めているか「自省」し、自らの限界を知り背後の力に任せて、起きるすべてのことを「受容」する。
 結果がどうであろうと「信念」を持ち続け、試すのではなく「誠意」をもって取り組み、そしてその苦楽が人生の創造や自己成長につながっていることに「感謝」をする。
 さらには、自分のライフや主体性を大切にするのと同じように、相手のライフや主体性を尊重して「敬愛」し、ケアの心で相手が主体性を発揮できるように「世話」をしていく。
 そうやって主体的に取り組みながら現象の背後の不可知の力と結びつきを強めていくことになり深い「安心」を得ていく。

 こうした不可知の力を根源とした人生の階層のストレスケアをどう伝えていけばよいのか。今の私は自らが実践することの先に答えを探そうとしているだけだ。 

 

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