裏付けと可能性の種
以前、
ピラティスの
インストラクターをしていた時、
私の指導者である
K先生から、
「何をするにも裏付けが必要よ!」
と教わった。
ピラティスなどの身体の動きは
状態によっては禁忌なものもある為
特にエビデンスによる
アップデート(更新)は
必須なのである。
今になれば
このカタカナ言葉を
理解出来る訳だけど
当時の私は
芸術系の短大卒の私には
チンプンカンプン💦
寝ずに資料を確認したり
先生に泣きながら
夜中まで…電話をして、
だいぶ…落ちこぼれだけど
なんとか資格を取得した。
(現在はディプロマ切れの為、
指導はしておりません。)
放送大学を卒業することで
漸く言葉を理解出来る様に
なった訳なのだけれども。
今は
児童福祉の仕事を
させて頂きながら
子どもたちのことを
学ばせて頂いている。
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会議の内容は
学識の高い方々が多く
とても難しかったりもするけれど
私はその中でも
自分の様々な経験を糧に
意見を出させて頂く。
そこで良く出てくるのは
「エビデンス」だ!
私の経験は
勘や傾向でしかないことも多い。
ただ、現場で感じることを
エビデンスと結びつけない限り
説得力があるとは言えない↓
自分の経験が全てと思って居たら
古臭くなってしまうのが
保育という仕事でもあると思う。
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子どもたちには
計画性は通用しないことが多い
突然!
予想外の展開が起きることがある
だからこそ
面白い↑と思う
お散歩してたら
蟻さんが居て
足が止まってしまうし
絵具で絵を描いて居たら
偶然が重なって
紫色が出来てしまうこともあるし、
筆を振ったことで
宇宙を描いたかのような
素敵な絵画が生まれることもある↑
そんな発見は
準備しただけでは
必ず起こるという訳ではなく
偶然を導き出し、
それが「快」になれば
少しずつ定着して行く
本来「快」になるべき所に
「痛み」や「恐怖」が重なると
それらは「不快」となってしまったり
逆に
本来は「不快」であるべきところを
「からかい」や「弄り」で褒めたり
その場しのぎの
「大丈夫」や「頑張れ」で
乗り越えてしまうと
「快」と勘違いして
記憶されてしまうように思う。
こういう出来事から
「誤認識」や「誤作動」が始まると
私は思っていて
絵を描く時は出来るだけ
その子の「快」の拡がりを
制限せずに
自由に発見し愉しめる様な
拡がりを大切にしたいと
思っている
だからこそ!
安全確保の為にも
「枠」が必要なこともあるけれど。
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様々な出来事が起きたとき、
咄嗟な場面で有ればある程
冷静さを保とうとして
記憶の中にある
「エビデンス」を捜すことは難しい。
だからこそ
普段の動きを考えながら
試行錯誤して行く
不器用過ぎる私は
それを癖にしていくしかない。
身近に注意してくれる人が
沢山居る今だからこそ
失敗談をきちんと報告することで
次に繋げて行けると思うし
一人相撲にならないように
誰かが
エビデンスを導いてくれる
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今になって思うのは、
私がインストラクター研修で
失敗を恐れ過ぎて引き籠り
自分の殻に篭りかけたとき、
心の扉をこじ開けてくれた
K先生はそのことを
「裏付け」という言葉で
私に伝えてくれたのは
経験だけでは
組織や社会は動かせないことを
浅はかな私に教えてくれて居たのだろう
そして
経験に頼り過ぎたが故に
傲りから傲慢になってしまい
小さな綻びに気がつけなくなることを
早い段階から
私には伝えてくれていた
ということだと思う。
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相手は他でもない
成長真っ只中の
子どもたち
私たちが想像する以上に
様々な特徴を持ち
柔軟に発想し結びつけて行く
その
発見と気づきの種を
見逃さないように
楽しんで、味わって、
時には
悲しんだり、悔しがったり、
様々な感情を載せながらも
しっかりと「裏付け」を確認しながら
私も一緒に
育みあって行きたいなと思う(^-^)
何時も読んでくださって
Mahalo nui loa♪