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#27 怒ることの正体見つけた!!(後編)

怒りや負の感情について、
なんとも整理できずに苦労したのが、
筆者の人生だった。

その苦労は、怒りや負の感情が
「"混乱"の集積で、自分サイズの器から
   溢れたもの」だと考えていなかったからだと、
筆者としては腑に落ちた。

怒りや負の感情には、もうひとつ、
大きなテーマが対(つい)となる。
「恨みや呪い」の問題だ。

前編の方で、「負の感情が特定の誰かに
よるものと認識すると、怒りの感情として、
他者に攻撃する表現となる」という事を綴った。

その攻撃が抑圧されて、自分自身に向かう場合、
恨む気持ちや呪う気持ちが育つ。
ご存知のように、人を呪わば穴は2つ。
対象の相手を苦しめることもでき得るが、
同時に自分を苦しめてゆく。

②【"誠実さ"を測りながら、生きる】

もうひとつ、筆者が発見したこと。
怒りを感じる体験も、
その感じ方が受け止められ、
対象の相手と感情を整理したり、
逆に良い感情に転回できたら、
「怒りは感じない方がいい、
   表現しない方がいい」とは、ならない。

むしろ、その健全な成功体験は、
より豊かな人としての成長・成熟を
かなえてゆく。

やはり、抑圧された怒りの感情が、
後日どれほど月日がたっても、
誰に話してみても、「怒るべき、或いは、
負の感情を感じてよい、表現してよい感情だった」という答えのとき、
「恨む気持ち、呪う気持ちに
   正当性がある」かのような、
複雑なものが腹に落ちてくる。

そして、そんな不快な結論を我が身に起こした、その原因と認識した相手には、
「わたしが決めている水準の"誠実さ"」が
赤点の落第点なのだと考える。

たとえば世の中も、親が子どもに対し、
物理的に寝食ができ、生命を保てるものを
与えていても、言葉が話せる者同士なのに、
日々コミュニケーションをとらない、
主導権ある親が接触を拒否するなら、
「ネグレクト」として、
「最低限の義務を放棄」していると判断されるかと思う。

それは「世の中が決めた"誠実さ"の水準」が
落第点だと評価するのだと考える。
綴りながら、現代でさえ、上記の例えが
水準を下回ると判断されるのかは、疑わしい。
もっと厳密な判断基準がありそうだ。

私がこの場で言いたい部分は、
「わたしが決めている"誠実さ"」の
モノサシの事である。
例えば、お互い会話をしていたのに、
片方が何らかの感情を抱いて、
無言で会話を終わらせ、それについて
何もなかったようにされたなら、
私個人は"誠実さ"に欠けるな、とまず思う。

だけど判断を下す前に、
自分のとった言動と、相手の選択した行為が、
どう繋がったかを考えたり、
繋がらないという結論だとしても、
「なぜそういう行為を選択するのか」を考える。誰に相談しても悪い理由しか(私を嫌いだからだ、とか面倒くさかっただけだ、とか)
出てこない場合、
「私が私の中で決めている、
   "誠実さ"の基準において、相手は赤点だ」
落とし込むしかない。

ひょっとすると、他の人なら落第点とはならず、
或いはきちんと相手に再試験を受けさせて、
相手の"誠実さ"を確認する事もでき得る。

とにかく人生において、
血縁者であれ赤の他人であれ、
慎重かつ柔軟に、人間関係は育めた方が
豊かな生き方になると、筆者は考える。

もちろん「私の中の"誠実さ"の基準」は、
厳しすぎず緩すぎず、
自分を快適に保てるように
最良のモノサシに進化した方がよい。

ただ、今のところ筆者のそれによれば、
生まれ育った環境は、水準を下回っていた。
そして、その中で築いたモノサシはまだ鋭く、
関わっていたい人は限定する。

それでも、自分は他者の"誠実さ"を
自分なりに測りながら、
人間関係を愉しみ、その中で
モノサシをも進化させながら、
より成長・成熟したいと思う。

もちろん、「私自身が誠実であるのか、
関わりたい相手や組織にとって、
私は水準以上に"誠実さ"があるのか」
同時に測りながら、生きてゆく。

筆者にとっては、
生きる事に対し、
意欲的になれる、
発見でした。
感謝!!!!

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