体罰は本当に悪なのか?
体罰は善
そう言い放ったのは、戸塚ヨットスクールの創始者の戸塚宏さん。
強い言葉ですね。
しかし私の考えとして、体罰を悪として否定することはできない。善にもなりうる。
と思っています。
体罰自体は手段として存在しているから
体罰はハードウェア
そういう言葉をおっしゃってました。
私も実は似たようなことを10代の頃から感じていました。
この言葉の意味は、体罰自体は概念としてすでに確立、存在していて
その中に様々な使用方法、条件などがソフトウェアとして存在しているという意味
例えば、スマートフォン。
明確な因果は証明されていないとは言っても、このハードウェアが普及されてから自殺者が増えたことは示唆される場面が多い。
また、一部の研究では不安や鬱を引き起こしているのではということも囁かれている。
それでは、スマートフォンというハードウェアは悪なのであろうか。
それは違う。使い方や、捉え方そう言ったソフトウェアの部分に悪が隠れているのだ。
しかし、この社会において、明確な善を生み出していることが証明されているスマートフォンというハードウェアと、体罰というハードウェアは前提が全く違うとも考えられるだろう。
しかし、私は10代の頃こう考えていた。
体罰はダメ。絶対。
そう言いながら、人格を否定するような強い言葉や、意図して相手を貶めるような嘲笑的な言葉はなぜ許されているのか。
悪いことをした生徒を、2人きりの狭い教室で怒鳴りつけて、それでその生徒が一生消えない心的外傷を負ったとしたら、多くの人がその行為を否定するだろう。
それでは何故、言動での叱責というハードウェアは悪だと否定されないのであろうか?
それはそれ、これはこれ。
と考えているからだ。
ならば体罰も同じことがなぜ言えないのか?
ずっと考えていた。
体罰の方が、強い言動の叱責よりもダメージを負いやすいから?
それならば、どこからどこまでがどのように負いやすいのか、体罰の中で線引きをつくるべきである。
体罰は悪だと決めつけることは、教育の放棄ではないのか?
大切なことは、体罰によるポジティブな効果がどこまで立証されるのか。まずそこを議論すべきである。
教育における体罰がどのように使われ、教育として長期的にどのような影響を及ぼすかを様々なケースで観測するべきであった。
体罰は悪である。
強い言動で叱責することは悪である。
この論点は、この行為自体がどうかではなく、
どう使われるか?どのような結果をもたらすのかに注目するべきなのだ。
しかし ア◯マの番組は本当に酷かった。。
ESFP 3人衆がよってたかって感情論でNを排除するさまは、まさに社会の縮図。
後藤さんは多分Nだからよかったけど
特に紫のヤツと、キャスター。嫌味なしで生きやすそうで羨ましいです。物事をたまには深く考えてみると良いかもしれませんよ。
と言いたい。
ESFP 3人衆
「 1..2..3..4.....
次の数字は何なんですか!?!? 」
戸塚宏 多分INTP
「 まずは、数字というものを知らんといかんやろが.... 」
ESFP キャスター
「 今は質問に答えましょう。😆 」