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秋が暮れる迄

※お立ち寄り時間…6分

「さっきは、驚かせてしまったね、引き留めてすまなかった」

いつも聞いている穏やかな声なのに、今日はなんだか妙にくすぐったい。きっと、先生の家にいるからなのだろう。

千秋先生は、いつも笑っている。
生徒からも慕われていて、優しくて、怒っているところを見たことがない。

だから、さっきは、本当に驚いた。

外では、雨が、土砂降りの雨が降っている。
先生の1人息子である、葉月くんが、熱を出し、抜け出せなかった先生の代わりに、迎えに行ったのだ。

全てが善意だった、とは言い難い。
邪な気持ちも些かあった。

葉月くんの容態も落ち着いたので、帰ろうとすると、聞いたことのない鋭い声が降ってきた。

「今日は、泊まっていきなさい」

引き戸を開けようとした、左手が塞がれた。
先生の細い指からは、想像ができないほど、力強かった。

外は、稲光が、いよいよ雨が降ろうとしていた。

水縹のハイヒールがお行儀良く玄関に座った。
居心地は、些かよさそうだった。

ただ、遣らずの雨、でもなさそうだった。
千秋先生の輪郭が、ゆらゆら陽炎のように、揺れていた。



「妻が、亡くなった時、雨の夜だったんだ。こんな風にね」
「冷たくなった妻は、あっという間に焼かれて、煙になってしまった。反魂香みたいに」

「白居易の李夫人ですか?」

薄赤い光に照らされた、先生の憂いを帯びた横顔が綺麗だった。先生の気持ちとは裏腹に、場違いな感想を持ってしまっていた。

「君は、優等生だね、僕は、これで知ったよ」

そう言って、鬼の手を持つ小学校教師の漫画を取り出した。先生の横顔が少しだけ明るくなった。

夫婦は、二世という。
もし、前世で一緒だとしたら、妻にもう会えないのかと思うと、生きていることさえ、ままならない時もあったんだよ。
訥々と話す先生の声が、少しずつ鉛のように沈んでいくように感じた。

「お姉ちゃん、泊まっていくの?」

葉月くんが眠い目を擦りながら、奥の部屋から出てきた。隙間から、先生の散らかった書斎が見える。薬が効いたようで、熱は、下がっていた。

「まだ、寝てなさい、葉月」
「もう、大丈夫だもん。遊びたい」

葉月くんが、膝の上に寝転がる。ふわふわと栗色の髪がひだまりみたいで可愛い。

「雨が降っているから、今日は泊まっていくよ」

黒目がちの瞳が、嬉しさでまたさらに大きくなる。髪の毛に指を通すと、きらきらと手のひらからこぼれ落ちていった。

「本当?じゃあ、今日はお姉ちゃんと一緒に寝る!」

笑い声がコロコロとくすぐったい。
まるで、千秋先生が小さくなったみたいだな、なんて軽率にも思ってしまっていた。

「迷惑ばかりかけてすまないね、木原さん」
「いえいえ、迷惑だなんて」
「良い生徒を持って、僕は幸せ者だなあ」

頭の後ろを掻きながら、先生は大きくニカっと笑った。屈託のない、子どもみたいな、無邪気な笑顔。

あの日見た笑顔だった。
生徒、か。

「これだから…」

気がついているのかいないのか。
鈍感なのか策士なのか。
天然なのか故意なのか。

本当、『ずるい』んだから。

「なら、先生、1つお願いがあります」
「1つと言わず、3つでも4つでも」

「来世で、一緒になってください」

「え…?」

雨は、そろそろあがろうとしていた。

ちょっとしたイジワルを仕掛けたけど、先生は、俯いたまま、固まってしまった。

葉月くんのお腹が盛大に鳴って、そろそろご飯にしますか、と話を逸らそうとした時、消え入りそうな声がコトリと音を立てて落ちた。

「同世代なら」
「え…?」

もう、雨は止んでいた。
先生の横顔が、すっぽり茜色に染まっていた。

ほら、『ずるい』、やっぱり。
貴方の表情が見えないじゃない。

「ずっと、お慕いしております」

そっと、先生の耳元でささやいた。
先生の左指は、細くて、優しくて、それでいて不器用だった。

泊まる理由は無くなってしまった。

少しずつ、秋が暮れてゆく。
貴方が、いつか、すっからかんに消えてしまっても、私は、反魂香は炊かない。

だって、また来世で逢えるのだから。

そうでしょ、先生?

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