おせっかいな母とSDGsとの関係
うちの母は、とことんお節介だ。
お節介という言葉は、母のためにあるのではないか。毎日玄関と家の前の道路も掃除する。時間がある時は、近くにあるゴミ置き場まで行って掃除する。『今日当番じゃないよね』と私がうと『いいのいいの。暇だったから』という。私はこの母の「お節介」にハラハラする。そんなことしたら当番の人が「私がやってないみたいじゃない!」と気分を悪くしないだろうかと。お節介と余計なお世話は、かなりキワキワなところで紙一重だ。そんな私の心配をよそに母は、どんどんお節介をする。
何か頂けば、『これ沢山いただいちゃってうちじゃ食べきれないから……』とお裾分けに行く。散歩に行けば「まぁ春だわ!」とつくしや蕗の薹を積んで帰り料理をしてご近所に配る。週に一度は必ず『沢山作りすぎちゃったわ!』と言いながら近所の一人暮らしのおじいちゃんの家におかずを持っていく。母は誰より周りのことを知っていて、母の周りは皆笑顔だ。
そんな母は、お節介を受けることにおいても天才的だ。『ありがと〜』そう言いながら色んな物をもらってくる。集まったそれを見て母は、「そう言えばこれ!あの人が欲しいって言ってたわ!」と必要な人の所へ持っていく。母は、再生リサイクルの集積場である。
このお節介は、誰にでも発動される。白杖をもっている人と信号待ちをすれば大きな声で「青になったから渡っちゃお!」と独り言を大きな声で言う。泣いてる子供がいれば『どうしたの?おばちゃんに教えて〜』そう言いながら近づいていき、お母さんに『大変よね〜子供は泣くのが仕事だからねぇ』などと話しかける。母は、人間が大好きなのだ。母は、人類皆兄弟を本当に信じているのだ。そして母を前にした人は、みんな性善説を肯定するかのように笑顔になる。私の心配がバカらしくなるほどに……
SDGs=よりよい未来のために世界が目指す17の目標。「世界で」そう言われるとちょっと怯んでしまう。
その世界の目標を見ながら私は、小さい母を思った。
「お節介な、人類皆兄弟な母。」うちの母そのものやん。突然身近になってきた。誰もが周りの人に興味を持つ。誰もがお節介を受け取ることに引け目を感じない。お隣さんのお隣さんは、いつか日本全体に、世界全体になる。「お節介」を「余計なお世話」かもなんて考える私の心が、母のお節介を、世界のお節介を、強いてはSDGsを潰してしっまってるのかもしれない。