日記:20241101「言語化、意識の流れ、わけのわからないもの」
今日は休もうとおもいごろごろしていた。けれども脳が休まらない。脳内はずっとこんなかんじ。
絵でもかこうかなあ、絵をかきはじめたらまたかんがえごとがふえるな、やめておこう、Twitterでなにかつぶやこうかな、さっきもつぶやいたしな、やめておこう、なんかやったほうがいいのかな、なんにもしないとそれはそれでかんがえごとをしてしまうな、でもなあ、どうしたらいいのかなあ、自分はそもそもなにを悩んでいるんだろう、Discordでもひらくか、文通おもしろそうだな、文通、文通かあ、ああ、そういえばイラストのつづきをかいてないな、やろうかな、やめておこう、今日は休むときめたんだ、あ、なんかDMがきているな、まあいいか、このひとちょっときになるんだよな、あれ、なにしようとしていたんだっけ、なんかお腹すいたな、ああ、お茶パックがきれてる、買いにいかないと、そのまえに部屋の掃除でもしようかな、めんどくさいからいいか、どうやったら休めるんだろう、これって休んでいるといえるのか、わかんないな、なにもわからない、なんなんだこれ、noteでものぞいてみるか、日記もなあ、たのしいけどなあ、たのしいことばっかしてればいいわけでもないし、なんかみんないろいろいってるな、本でも読もうかな、そうしよう、やっぱりやめよう……。
1日中こんなかんじで休んでいるのかいないのかよくわからなかった。ひとの考えていることっておおむねこんなものだろう。これでもまだまともなほうかもしれない。実際には言葉にもできないようなもやもやとした思考がある。そういうものをそのまま言葉にしようとしたひとたちが文学の世界にはいる。ジェイムズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、ウィリアム・フォークナーなど、またそうした技法は《意識の流れ》といわれたりする。
最近、言語化という言葉をよくみる。物事や現象を言語化することなんてできるのだろうか。たとえば人間のこころを正確に言語化しようとしたら他人からはほとんど理解できない《わけのわからないもの》になるだろう。