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国会議員の秘書 55(平成6年暮から平成7年年明け)

 野中先生が自治大臣・国家公安委員長になられて私たち秘書もようやく大臣の事務所としての業務が慣れてきてペースが掴めてきた。京都や他府県からお付き合いのある皆様が、1日に数組議員会館の事務所に訪ねて来られた。私は、その方たちを大臣室に車でお連れする仕事が主で、日に数回、議員会館と大臣室を往復する毎日が続いていた。その一方で朝鮮労働党との連絡も私が担当していた。数週間に一回ぐらいのペースでお互いの状況をやり取りしていた。
 当時、朝鮮労働党では、組織構成が変わったような動きがあった。金容淳書記を委員長とするアジア太平洋委員会という部署が出来ていた。こちらには、私が知っている労働党の指導員たちがいなかった。しかし、このアジア太平洋委員会が日本の窓口になるということであった。
 ある日、野中先生に呼ばれて大臣室に行くと秘書官室で自治省の職員の方がレクチャーをするのに、数組待機されていた。私は、挨拶をしてこれだけの来客なら待ち時間は、1時間半ぐらいかな。と思いながら、待ち合いのソファに座って時間が空くのを待っていた。ようやく私の番が来て大臣室に入ると野中先生から「山田君、民間団体の○○会長が、平壌に訪問されたいと言われて依頼がきたから、両国に取っても悪い話ではない。金容淳書記宛に俺の依頼書を作って送っておいてくれないか。」と言われた。私は、即座に「わかりました。事務所に戻って作成して金容淳書記宛に送付しておきます。」と答えて、事務所に戻り、文書を作って直接の先方連絡先に送信した。金容淳書記の部署から即日に打ち返しがあった。「野中先生からのお話し受け入れさせてもらう」ということと「金容淳書記が対応する」とのことだった。返ってきた返信を野中先生に伝えると訪問される団体に伝えられた。
そうして平成6年の11月頃だったと記憶しているが、その団体の会長はじめ幹部が訪朝された。そうしてその一行に、アジア太平洋委員会からのメッセージを託され帰国してから団の事務局の方がそのメッセージを届けにこられた。その内容は、年明けにアジア太平洋委員会のメンバーが日本に入国するので面談を求める内容だった。
 年明け、1月の5日だったと思う。そのメンバーたちが朝鮮民主主義人民共和国でやるイベントの打ち合わせ目的に入国し、野中先生と面談した。私もその席に同席した。「日本の国会議員、何人かが、朝鮮労働党にアプローチしてきていて、どうすればよいのか。」という相談だった。そのアプローチの内容は、私たちは、聞いていない話ではあったが、その内容の政策には長けた先生方がアプローチされていることがわかり、その気になられたら実行できる話だったので野中先生自身が、その先生方に確認してみるという話になった。面談したアジア太平洋委員会のメンバーは、安堵した表情で喜んでいた。今から考えると公式な訪問で
も公式な会談でもなかったが、大臣が、朝鮮労働党のメンバーと会うということは、考えられない話であるが、当時は、全くなんの違和感も批判もなく、普通に相談をしているような感じで、アジア太平洋委員会のメンバーも忌憚無く自分たちが危惧していることを相談するという雰囲気で、むしろそろそろ朝鮮民主主義人民共和国と国交交渉をして国交樹立を近い将来日本とするかもしれないとお互い考えられていたように思えた。アジア太平洋委員会のメンバーは、野中先生が確認して連絡するということを確約して安心して帰国の途についた。
 彼らが帰国してから数日後、私は、朝起きてテレビをつけると近畿地方に凄い地震が起こったというニュースに接して驚いた。見ると京都は、震度5になっている。急いで実家に電話したが繋がらない。私は、電話が繋がらないので実家ももう倒壊してダメかもしれないと思い、また、この日は、京都からも後援者が数名来られることになっていたので、直ぐに、出勤の用意をして早めに事務所に出てから大臣室に向かった。
大臣室では、野中先生がソファに座られており、消防や警察などの情報が刻一刻と入ってきていた。しかし、震源地に近いところの情報が、この時は、あまり入ってきていなかった。それは、警察署も消防署も被害に遭われて被災されていたし、連絡網も被害に遭っていたので報告自体が出来なかったのである。時間が経つにつれて被害状況がだんだんと増していき、政府として深刻な状態になっていた。総理官邸で閣僚会議が開かれ、そこで阪神淡路大震災の担当大臣が設置され、その大臣に小里先生が就任された。また、この日は、消防庁長官の異動の辞令の日であったので、野中先生は、緊急時の対応として後に衆議院議員になられた瀧実先生ともうお一方を消防庁長官にされた。そうして2人の消防庁長官がテキパキ指示を出され対応されていたのを見ていた。私は、その姿を見て役所の「緊急時の対応って凄いな」と思った。後にも先にもこのような人事は、見たことがなかった。震源地が神戸から淡路にかけてということが判明し、そうして被害状況がどんどん入ってきた。私は、それを聞いて絶望感に苛まれた。地震災害もそうであるが、自然災害の恐ろしさと政府の対応を見ていて、災害の中心地の状況は、その被害状況は、皆様が被災されて連絡手段も無くなることからしっかりした防災システムが必要であると言うことを痛感した日であった。

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