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国会議員の秘書 48(平成5年の選挙①)

 平成5年6月18日、宮澤総理が解散に打って出られた。私は、翌る日には、京都に戻って選挙準備に取り掛かった。京都市の葛野大路五条の北東門にある選挙事務所用地に、選挙事務所になるプレハブは、2棟あるが、もう一つ増設するのに、土台を丁度作られているところだった。毎回後援会の方に任せているので、そちらの方に任せておけば、私たち秘書が事務所の設置について心配することはないが、この時は、急な解散だったのでエアコンを取り付けるのに間に合うかどうかということだった。6月にもなると京都の蒸し暑さは身体にも応える。私たち秘書は、自分の与えられている持分を淡々とこなしていた。
 私は、京都府選挙管理委員会が開催する候補者説明会に参加して、立候補届出書類の準備に取り掛かった。難しい書類ではないが、1番はじめに提出する書類なので作成するのには、毎回担当しているとは言え緊張する。また、選挙広報や今回のキャッチフレーズ、マスコミからのアンケートなど時間のない中、野中先生を捕まえては、打ち合わせをするのであるが、野中先生の修正が何回も入り、締め切りギリギリになる。それでも何とか公示日までには間に合った。
私は、立候補の届出書類も書き上げ、準備が整っていた公示日の前日の夜のことだった。東京事務所に、私の下の秘書として入った後輩が、学生の運動員の管理とビラ、ポスター、選挙ハガキの担当として任されていた。彼にとっては初めての選挙を経験するのである。中選挙区のため、11市33町村ある後援会の支部に、掲示板に貼ってもらうポスターと切手など各支部に仕分けして渡すセットの袋詰めをしていた。私は、書類も出来上がったので今日は、少し早く帰ろうと思って事務所を見渡すと後輩の秘書が、虚な顔でポスターのセットを袋から出しては入れ、出しては入れてよくわからない動きをしていた。その時には、夜中の午前零時を回っていたのだが、その姿を見て私は、帰るに帰れず、何をしているのか彼に聞きに行った。すると何回やっても同じ数字にならないので困っているところだった。私も経験したことがあるのだが、公示日の直前には、よくあることではあるが、寝不足で頭が回らず、特に数字の計算についてはよく間違うようになる。彼は寝不足でその状況に陥っていた。私は、とりあえず1からやり直したほうが早いと判断し、後輩秘書に、「俺が手伝うから全てやり直そうか、そっちのほうが早いので、君は各市町村に配る数字を上から読み上げてもらえないか、そしたら俺がその数分だけ袋入れていくから」と伝えた。その作業が終わったのが午前2時過ぎだった。車で20分ぐらいの宿泊しているホテルに戻り、明日提出する立候補届出書類を最終確認して、シャワーを浴びて寝たのが、4時前だった。公示日当日は、私と届出番号がわかった段階で連絡する係の人。単車で7つ道具を受け取っていち早く選挙事務所に届ける人の3人で京都府庁の東門のところで7時30分に待ち合わせをした。3人が揃って選挙管理委員会の指定されている場所にいくとすでに何組か、他の陣営の方が来ていた。8時になり、届出の受付が始まるとくじ運の悪い私は、やはり2番を引いていた。「選挙事務所に戻るとまた、嫌味を言われるな。」と思いながらビラの証紙などを受け取って選挙事務所に戻った。今回の選挙は、自民党にとっても、野中先生にとっても守旧派というレッテルが貼られおり凄い逆風だった。しかし、この選挙でも野中先生の意向で自民党という看板を大々的に出すようにという指示だったので何かにつけて自民党を大きく打ち出した。
私は、届出が終わると自分の与えられている持分の役目は、ほぼ終わってしまうので団体対策担当を手伝うのと党本部から応援に来てもらう先生方の送り迎えの運転をした。この時、運転をして印象深かったのは、小渕恵三経世会会長と梶山静六自民党幹事長である。
小渕恵三経世会会長が選挙区に応援に入って来られた時に私が2日に渡って運転させていただいた。1日目は、他の選挙区からこちらの選挙区に夕方入って来られ、個人演説会の2ヶ所に演壇に立ってもらった。指定された場所に迎えに行き、そちらから京都市伏見区にある小学校の体育館で個人演説会を開催していた。そこまでに行く車の中で選挙区の人口や有権者の数、地域の特徴、野中系列の議員のこと、前回の選挙の時の得票数などいろいろと詳細に渡って小渕先生から質問を受けた。私は、質問を受け過ぎて、道を間違えそうになるぐらいだった。個人演説会の会場に到着してやれやれと思ってどんなことを話されるのか、また、先ほど答えた情報を演説の中で入れられるのかな。と思いながら、会場の入口のところで聞いていると、小渕先生は、いきなり「みなさん、私を知ってますか?平成のおじさんです。」と官房長官の時に、平成という文字を記者会見で示された格好をして会場を沸かせた。演説の内容も会場では、受ける演説をされて来場者を笑わせられていた。私は、「流石、雄弁会出身で話は、面白い。でも車の中で質問されたことは全く話さないやないか。」と思いながら2会場を運転して小渕先生の宿泊先まで送った。翌る日は、伊丹空港まで行かれるので迎えの時間を伝えて選挙事務所に戻って翌る日の用意をした。
翌朝、小渕先生をホテルに迎えに行き、伊丹空港まで送るというのが私の役割だった。小渕先生が車に乗り込まれると伊丹空港に向けて車を走らせた。当時は、ナビもなく地図だけが頼りだった。
地図を頭に入れて高速を走っていたが、私は、高速の降り口を通り越してしまい後戻りできなくなった。「マズい。小渕先生の飛行機乗り遅れさせたら大変なことになる!」と思ってハンドルを握る手に汗をかいた。すぐに出口を間違ったことを伝えて、次のインターで降りて、再度、高速に乗り、伊丹空港の出口のところで降りることが出来、伊丹空港に到着した。何とか小渕先生は、飛行機に間に合って私も事なきを得た。
数日後、今度は、幹事長の梶山静六先生が応援に来られた。夕方の早い時間に到着されたので近鉄伏見駅に近い清和荘という料亭で梶山幹事長、野中先生、地元の議員などと個人演説会前に食事をしながら懇談をしていただいた。私もそこに同席をさせていただいた。その懇談の最中に、梶山幹事長が信頼されているある記者さんの人事異動の話になって、その記者さんに同情をして涙を流されていたのを記憶している。私は、この時「梶山先生は、なんと人情家なのだろう」と思った。
車の中でも梶山先生は、私にいろいろと話しかけていただき、気さくな方で話をしやすい先生だった。そうして、演説会場を3ヶ所回ってもらい、最終の亀岡市の会場を出て車を走らせると、梶山先生がいきなり「おい。秘書さん車を止めてくれ。」と言われた。私は、急いで車を止めると梶山先生は、随行の秘書さんに「おい!あれな。」と言われて秘書さんが、自動販売機から数本ビールを買って来られた。梶山先生は、私に、「君運転しているから申し訳ないな。演説のあとのこれが最高なんだよ。」と言われてビールを一気に飲み干された。
私は、「先生、大丈夫です。私は、先生を無事送らせていただくことを野中から言われております。」と伝えると「じゃ、申し訳ないもう一本いかせてもらうな。」と言われて2本目を飲まれた。私以外、冷えたビールを飲まれていたので、「こうしてみんなで仕事が終われば飲まれるのだな。なんかこの感じがいいな。」と思った。
そうして選挙期間を終えると、情勢は、結果として自民党は、新党ブームと自民党から出て行った候補者のところに新たな候補者を擁立するのが間に合わず、過半数を割り込む結果となってしまった。

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