見出し画像

国会議員の秘書34(平成3年後編2 重大な決意発言)

 毎年、夏の終わりに箱根ランドで開催される経世会(竹下派)の青年研修会と議員研修会も終わり、夏に山中湖の別荘で過ごされていた金丸信先生も箱根の研修会が終わると東京に戻って来られる。
 研修会が終わって東京では、永田町の金丸信先生の事務所があるパレロワイヤル永田町の11階の金丸先生の麻雀部屋では、平日の午後に数人の先生方が金丸先生を囲んで麻雀をされていた。
たまに私は、金丸先生と麻雀をされている野中先生に連絡することが出来るとパレロワイヤル永田町の6階にある金丸先生の事務所に顔を出して「うちの代議士に連絡したいことがあるんですが。」と伝えに行く。金丸先生の事務所は、秘書さんたちが出払っている時が多く、日程を担当されている秘書さんか、女性の秘書さんのどちらかが事務所に残られていて、私に、「それじゃ。直接11階に上がって野中先生に伝えてきたら。」という答えが返ってくる。私は、「ありがとうございます。それでは、上に行かせていただいて伝えてきます。」と言って麻雀をされている部屋に上がらせてもらっていた。
 先生方が麻雀をされている部屋は、表の扉の鍵は、空いており、ドアを開けると金丸先生のSPさんが入口の側の椅子に座られている。奥に見える麻雀卓では、入口に背を向けて金丸先生が座られている。ドアを開けて「お邪魔します。野中事務所の山田です。」と入口で言っても金丸先生は、背を向けたまま頭ひとつピクリとも動かれない。麻雀卓を囲まれているレギュラーの西田司先生(愛媛)、中島衛先生(長野)、野中先生は、一斉にこちらを見られた。私は、「流石、金丸先生、政界のドン。この部屋に入って来る人は、金丸先生より上の人はいないからな。振り返って誰がきたか確認される必要もないな。」と思いながら部屋に、上がらせてもらい。笑顔で立ち上がられたSPさんに、会釈をして野中先生の横に行って耳元で報告をする。というような場面が度々あった。
 また、9月17日が金丸先生の誕生日なので野中先生は、この時期、京都の特産品などで特別なものがないかいろいろと思案されて「金丸先生に、何を誕生日プレゼントにするか」をよく考えられていた。この年は、金丸先生の喜寿のお祝い会もニューオータニで盛大に開催された。そうこうしていると海部総裁も改選期が近づき金丸先生はじめ経世会は海部総裁続投という空気でまとまりかけていた。
 臨時国会が8月の上旬から始まっていた。そこでは党内で意見が分かれていたものの6月に総務会で党議決定をして、7月に閣議決定をされた政治改革関連3法案が、国会に提出され審議されていた。しかし、9月末になって衆議院の政治改革特別委員会の委員長をされていた小此木彦三郎先生が審議未了で廃案の取り扱いとすることを表明され、海部総理が閣議決定され国会提出に漕ぎつけられた政治改革関連3法案が廃案という方向になってしまった。そこで海部総理は、党の幹部を集めて「重大な決意をする」という発言をされた。
この発言は、永田町を駆け巡り、衆議院解散、総選挙という流れになっていっていた。海部総理が「重大な決意」発言をされた日もパレロワイヤル永田町の11階では、金丸先生と野中先生たちは、麻雀卓を囲まれていた。その時に金丸先生に海部総理から電話も入ったようだった。当日私は、「選挙があるかもしれない」と思い、海部総理の発言を聞いて、ワクワクしていた。しかし、その日のうちに海部総理の発言のニュアンスが変わってきたようで「金丸先生が、解散には反対しているようだ。」とか「金丸先生が海部総理を見放した。」というような情報が流れてきた。海部総理がトーンダウンされているような情報も流れた。
私は、野中先生が出られている夜の会合の場所に迎えに行って、その場所から宿舎までいつものように車で送った。野中先生は、この時車の中では少し急いでられるような雰囲気であった。宿舎のロビーでは何人かの記者さんが、待ち構えられていた。野中先生が宿舎に到着すると記者さんたちが先生を囲んで宿舎の部屋に入っていかれた。私は、車に積んであった荷物を降ろして部屋に届けた。そして「それでは、失礼します。明日、7時40分迎えでいいでしょうか。」と伝えると「わかった。お願いします。」と返事が返ってきたので、「お疲れ様でした。」と言って宿舎をあとにした。
 「今日も一日終わったな」と思いながら自宅に帰り、風呂に入ろうと思っていると23時過ぎぐらいに、私の自宅の電話に野中先生から連絡が入った。受話器を取ると「山田君、〇〇さんに連絡取りたいんだけど。君、連絡取って俺に連絡もらうように伝えてくれるか。」と言われた。私は、「わかりました。連絡つき次第、お伝えします。」と答えて受話器をおいた。
そして、野中先生が言われた方のポケットベルを何回となく鳴らした。しかし、その方とは、その夜に連絡がつかなかった。私は、それほど深刻なことでもなく、「仕方ないな。」と思いながら風呂に入ってから眠りについた。
翌る日、宿舎に先生を迎えに行くと朝駆けの記者さんたちが野中先生を囲んで宿舎のロビーで立ち話をされていた。野中先生が宿舎の玄関を出て来られ、片手を挙げて「じゃ。」と言われて車に乗り込んでこられた。
私は、野中先生が車に乗り込まれると自民党本部に向かって車を走らせた。運転しながらバックミラー越しに新聞を読まれている野中先生を見て「先生、昨晩は、すみませんでした。〇〇さんに連絡つかなかったです。申し訳ありませんでした。」と言うと、野中先生は、「しゃーないな。」とポツリと言われたので、気になって「先生、何かあったんんですか。〇〇さんに連絡が取れたらよかったんですが。」と言うと「いやな。金丸の親父のことをな。.....。」と言うことだった。私は、「えっ。」と声をあげて頭の中にいろいろなことが駆け巡った。
あの頃は、まだ携帯電話もスマホもなく今のような通信環境とは違い電話一本、連絡を取るのも結構手間がかかった。今のような通信環境で簡単に連絡が取れていれば、現在のような政治状況になってなかったかもしれないし自民党が下野することもなかったかもしれないと思う。しかし、政治は生き物であり、「もし」と言うものはなく、また、その先には何があるかわからないものである。結果が全て。私は、この時、政治家の言葉の重みや読み違い、受け取り方や思い込みなどで一瞬にして政権が吹っ飛ぶまでに状況が変わる恐ろしい世界だと車の中で野中先生の言葉を聞いて痛感した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?