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衆議院議員野中広務秘書の名刺

 京都の野中広務事務所に通うようになって1週間経ちようやく事務所の雰囲気にもなれてきた。金曜日の午後に野中先生が、東京から京都に戻り事務所に入ってきた。事務所の扉を野中先生に随行している秘書が開け、先生が入った瞬間私は、椅子から立ち上がり、直立不動で「お疲れ様です」と頭を下げて言った。すると野中先生は、私の顔を見たけど「なんやコイツ」というような顔して自分の執務室に入って行った。筆頭秘書が部屋に入り、女性が続いてお茶を持って入った。
私は、完成に無視されていると思い「この先どうなるんやろ」と思いながら「なんか取っ付きにくい人やなぁ」と内心思いながら机に向かった。

 その日の夕方、先輩秘書に「なんか先生機嫌悪いのか知りませんけど。無視されたんですが、私に何かあるんですかね?」と元々いらないと言われていたので心配になって聞いてみた。すると先輩秘書は、「心配せんでも大丈夫や。オヤジは恥ずかしがりやから初対面はだいたい何も言わんがよくわかっているから」と言われて安心した。

その週の土日は、先輩秘書の運転をして京都の南部地域の後援会の役員周りをした。初めての経験ばかりで毎日異常に疲れたのを思い出す。

そして、また、月曜日が始まり、車で通勤していたので京都駅前の新都ホテルの駐車場に車を停めて事務所に向かおうとした。野中事務所は、ことあるごとに新都ホテルを使っていたので事務所の車は、ホテルの裏にある広い駐車場を使わせてもらっていた。私は、車を停めてホテルの入口の前に差し掛かった時に野中先生と随行していた秘書がホテルから出てきて京都駅に向かうところだった。野中先生は、京都に戻ってくると基本的には園部町にある自宅に帰るけど、京都市内や京都の南部地域で遅くなって翌る日早く出発しないといけない時は、新都ホテルに宿泊する。新都ホテルは野中先生の定宿で余談だが、125号室か、155室と決まっていた。京都駅に向かう野中先生と随行の秘書の後を私は走って行って近づき、後ろから「先生おはようございます。新幹線のホームまで一緒に見送らせていただいていいですか?」と思い切って言った。すると随行の秘書が「おう。一緒にきたらええ。先生よろしいやろ?」と言ったら野中先生が頷いた。
私は喜んで「荷物持ちますわ」と言って随行秘書が持っている野中先生が東京に持って行くお土産の紙袋を持つのを手伝った。これも余談だが、野中先生が東京に持っていくお土産は、当時園部町に本店があった「くりや」の「金の実」を持って行った。「金の実」を持っていくのは特別な人と会う時に持っていく地元名産のお土産だった。
そして京都駅の八条口の切符売り場で入場券を2枚買い先輩秘書に一枚渡した。野中先生は、あまり新幹線に飛び乗りをすることはなく、秘書が抑えている時刻通りの新幹線に乗る。予定通りの時間に動いてもらえるので、京都の秘書も東京の秘書も時間が読めやすいから秘書としてはやりやすい代議士だった。
ホームに上がるとジャパントラベルという新幹線のホームにあるスタンドコーヒーの店で新幹線が到着するまでコーヒーを見送る秘書と飲み、コーヒーを入れてくれる店員さんと最近売れているか?などを聞いて話をする。このジャパントラベルという会社は、魚住さんという方が社長で野中先生がこの世界に入るきっかけを作った方の娘婿さんだった。言わば野中先生にとっては恩人の店である。
コーヒーを飲み終えた時に、野中先生が私の顔を見て「君、名刺は作ったか?」といきなり言われた。私は、ビックリして身体が固まりながら「いえ。まだ、いただいておりません。」と言うと
「早いこと作らなあかんやろ。おい、俺が山田君の秘書って肩書き書いた名刺を作れって言ってた。と第一秘書に言っとけ。」といきなり随行秘書に言われた。私は、「えっ、秘書ていう肩書きをもらえるんですか?それは滅相もない。恐れ多いです。」と野中先生に言うと「君、なに言うてるねん。名刺なんかビラと一緒や。選挙になるんやから周って名刺まきまくらなあかんやろ。
1000枚作っとけと俺が言ってたと言っとけ。」と言われた。私は心の中で「えっ、ほんまに野中広務の秘書になれたん。えっ、えっ、聞き間違い違うやろな。」と思いながら足が震えているのがわかった。すると随行の秘書が「先生、わかりました。私が事務所戻り次第、山田君の名刺作るように言っときます。」と私の顔を見ながら笑いながら言われた。私は嬉しくてたまらなかった。
大学2年生の時から野中広務の秘書になるのが夢で毎日、毎日どうしたらなれるのかをひと時も忘れずにきたことがようやく実現した瞬間だった。あの時の情景は今も鮮明に思い浮かぶ。
これが私の衆議院議員野中広務秘書という肩書きをもらった瞬間だった。

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