
国会議員の秘書 57(平成7年全編②)
3月に入り、一層、オウム真理教の問題が連日、世間を騒がす状態になってきた。
3月20日の朝、当時私は、京浜東北線と有楽町線を使って議員会館の事務所に、出勤していたので影響なく事務所に到着した。事務所に到着して少し経つと消防車や救急車のサイレンの音がひっきりなしに議員会館の周りに聞こえてきた。私は、窓側に行って外を見た。しかし、外を見ても煙が出ているところも火事になっているようなところも窓からは見えなかった。しかし、異常なほどの数の消防車や救急車が行き来していた。何があったのか、議員会館の事務所ではさっぱりわからなかった。
テレビをつけると地下鉄で液体のようなものが撒かれて、それを吸い込んだ人などが、霞ヶ関や築地などで人が座り込んで倒れたりしている映像が流されていた。どうも地下鉄の数カ所で液体を誰かが撒き散らして被害があったようだった。
野中広務先生は、国家公安委員長をされていたので、この日の大臣室は、大変な状態だったと思う。私は、この時は、全く知らなかったのだが、22日にオウム真理教を警視庁が強制捜査をされるという予定であった。この情報が教団側に入ってきていたのかは、わからないが、先手を打たれたのかもしれない。この頃は、事務所にオウム真理教についての抗議の電話で一日中かかってきて、対応に私たちは、追われていた。抗議電話は、1日に数百本に及んでいた。私は、電話のベルが鳴ると受話器をとるのが億劫だった。何件かは、オウム信者を堂々と名乗る方もいたし、事件に関わっていたメンバーからもかかってきた。
私もこの電話の対応に追われているとだんだん自分の身に危険も感じた。また、事務所に届く郵送の荷物も知らない人から送られてきたものは、私が担当していた。この時一番心配だったのは、「小包爆弾が送られてくるのでは、」と荷物が届くたびに注意を払った。
この日は、時間が経つにつれて被害状況がどんどん広がっていき、既に死亡される方も出てきていた。私は、「どうなるのだろ」と思いながら事務所に設置されているテレビを見ていた記憶がある。これが地下鉄サリン事件の当日の状況だった。
22日には、山梨県の上九一色村にあるオウム真理教の施設をはじめ数カ所に警視庁による家宅捜査が行われた。相変わらず、事務所には、抗議の電話ばっかりが、業務関係の電話よりも多くかかってきていた。
また、オウム真理教の問題と並行して、私には、当時、28日に朝鮮民主主義人民共和国へ訪問される渡辺美智雄先生を団長とする自民、社会、さきがけ三党の訪朝団の朝鮮労働党との連絡調整をしていた。
この間、地元からは、後援者もたくさん大臣室に来られるし、渡辺訪朝団の連絡調整、抗議電話の対応など目まぐるしい毎日を送っていた。
30日の朝には、日本において揺るがす大変なことが起こった。それは、警察庁のトップである国松長官が狙撃され、一命は、取り留められたものの予断を許さない状況になった。野中先生も国家公安委員長をされていたので狙われている1人としてこの日から警護も増強され、野中先生を囲むSPさんは、7人であったが、警護の体制は、常時250人の体制になった。これには、私もはじめて経験だったので警護される警察官の多さに驚いた。野中先生が移動するとたくさんの警察官の方が動くのである。総理になると常時300人の警護体制が引かれる。当時は、野中先生は、内閣では、2番目の警護体制になっていた。
また、国松長官が狙撃された日だったので本来ならトップニュースになるほどの案件だったのだが、この日、あまり報道されなかった渡辺美智雄先生の訪朝団が、自民党、社会党、さきがけの三党と朝鮮労働党の4党で日朝国交正常化交渉を再開するということで合意された。このニュースも大きなことであったが、日本の警察のトップが狙撃されたという日だったので、掻き消されていた。この渡辺美智雄先生の訪朝団で同行された商社の経営者の方と加藤紘一先生の事務所が後々に、マスコミ等で騒がれて注目されるようになるのである。
そうして4月には、朝鮮民主主義人民共和国の李成録国際貿易促進委員会委員長を代表とする一行が日本に代表団として来日してきた。この代表団と農林族の議員の先生方とが、話し合われて有償・無償で50万トンの米の支援が決まったのである。当時は、前年から米の輸入が決定されて日本に入ってきていた米が、ダブついていたので、その米で食糧難に喘いでいる朝鮮民主主義人民共和国に食糧支援をするということで合意されたのである。これが、俗に言う95年の北の米支援ということになったのである。しかしながら、この米の支援においていろいろな疑惑が後々持ち上がってしまった。
私にとっては、当時いろいろなことが起こり、めまぐるしく私の周りの状況が動いていたように思う。
そうして5月に入り、オウム真理教施設に潜んでいる教団代表の麻原彰晃に逮捕状がでた。14日に山梨県の上九一色村の教団施設に警視庁が強制捜査をして麻原彰晃を逮捕した。もし、この捜査で警察官に、命に関わることがあったり、麻原彰晃が居らずに、逮捕出来なかったら、国家公安委員長として責任をとって辞任するということを野中先生は、言われていた。警察のきめ細やかな捜査で警察官の命に無事、関わることもなかったし、麻原彰晃も逮捕出来た。しかしながら、麻原彰晃が逮捕されて2日後に、私たちが恐れていたことがおきた。それは、東京都知事の秘書室に、小包爆弾が送られて秘書室で爆発したのである。不幸にも都知事の秘書が大変な被害に遭われた。私たちのところにもいつ送られてきても不思議ではないと思っていたものが、都庁に送られてきたのであった。恐ろしい話である。
以上が95年の3月から5月にかけての私の経験したことであった。