国会議員の秘書⑧(後援会旅行)
昭和62年の統一地方選挙も終わり、5月のゴールデンウィークは、統一地方選挙の事務所内の残務整理などで休みなく平常通りの勤務であった。表向き事務所は、閉めているもののそれぞれの秘書は、自分の担当の仕事をした。また、この時期は各地域でお祭りや行事もあり、それに顔出しとかを分担してやっていた。世間では連休だったが、事務所は、全くそういうものは関係がなかった。
この時期を過ぎると事務所は、後援会の方との交流と地盤固めと拡大をするために、後援会旅行の計画が持ち上がる。後援会旅行は、国内の温泉などに一泊で行く国内旅行と第二次世界大戦で戦地となって日本軍の戦死者が出ている海外の戦地に慰霊の旅という五日間ぐらい行くものがあり後援会の年間行事として組まれていた。
私は、海外の後援会旅行は経験はないが、国内の後援会旅行は、地元の秘書をしていたので経験させてもらった。現在、現職議員でも後援会旅行というものはあまりされてないのではと思う。
後援会旅行を組むには、まず、事務所と旅行社が日時と行く場所を仮で決め、野中先生の日程と来賓で来てもらう先生方の日程を調整し、各地域の後援会幹部に日にちを提示する。だいたい6月の中旬以降で通常国会が終わった頃に後援会旅行を設定することが多かった。
各市町村単位の後援会単独で人集めをするとか、いくつかの市町村単位の後援会が合同で人集めをして、丹後ブロック、舞鶴ブロック、中丹ブロック、南丹ブロック、亀岡ブロック、京都市内、乙訓ブロック、宇治・城陽・綴喜ブロック、相楽ブロック等々、各後援会をブロック単位に分けて一泊二日で観光地のホテルを一週間くらい貸し切りにし、1ブロックでバス7台から10数台ぐらいを仕立てて一団で来てもらうようにする。
だいたい1団体少ないところで300人、多いところで800人ぐらいが旅行会に参加される。
私たち秘書は、そのホテルに泊まり込み毎日、同じように後援会の方が乗ってくるバスを待ち受けて迎え、そして夕方の宴会に備える。宴会は、ホテルの大広間で行われる。だいたい舞台のある宴会場は、畳の間になっていて御膳が人数分並んでいる。今では考えられないが、800人ぐらいが遊に座れるようになっており、旅行会に参加している方は、浴衣に着替えて並べられているお膳に着席する。そうして大宴会が大広間で始まる。
参加者全員が座られると先輩秘書が司会をして宴会の開会を宣言し、来賓の挨拶がある。順序としては、参加者の地元の地方議員が挨拶をして事務所からお願いしてきてもらっているテレビのコメンテーターなどをしているゲストが少し話をして、その後、野中先生が国会報告を兼ねて挨拶をする。野中先生の挨拶はいつも少し長くなるので、後ろのほうから「刺身が腐るぞ!」や「ビールがお湯になる!」などの声が聞こえてくる。後援会長の乾杯と同時に宴会が始まる。
この宴会が地元秘書にとっては、地盤を固めるための最大の活動と忍耐の場となる。宴会場に参加されている数百名の方にひとりひとりお酒を注いでまわり返盃を受けるのである。私は、お酒がもともと飲めなかったので、飲めないのを知ってもらうために数年間辛い思いをした。ビール瓶を両手に持って注いでまわると「お前は、俺の酒が呑めへんのか!」とよく怒られた。私は、「申し訳ありません。私が注がせていただきます。」と膝をついてひとりひとりまわるので宴会が終わる頃には、スーツのズボンの膝や裾がボコボコになっていた。また、この宴会の間は、食事も出来ない。先輩秘書は返盃、返盃でお酒を飲み宴会場で酔って倒れて自分の部屋に戻れず、毎日、宴会場でそのまま寝る始末であった。野中先生は、ひとりひとりに隈なく握手をしてまわられた。これが同じホテルで毎日、後援会の人は、入れ替わるが全て終わるまで1週間続くのである。トータルで3000人から4000人を動員している旅行会になる。各市町村の後援会で旅行会が組めて数百名の参加者が出来るようになるとその地域は、しっかりとした後援会組織となり、選挙の時はその地域は安泰である。どこまでその地域の地盤が強くなっているのかを見るのも後援会旅行は良い機会になるのだ。逆に後援会旅行が組めない地域は、選挙が弱い地域で日頃からのテコ入れが必要となる。
現在では、国政報告会を開催しても一会場、50人、100人と一つの地域で人が集まってもらうのが難しい議員が多くなったが、この頃は、割安の旅行会だったとは言え、料金を支払ってもらいこれだけの人数を集めるのは当たり前とされていた時代だった。
後援会旅行も選挙を勝ち抜くための地盤を固めるためには、大切な地元の後援会の年間行事の一つだった。