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国会議員の秘書30(平成3年前編 初の海外随行4)

 お酒が飲めない私は、無理して焼酎を飲んだので気持ち悪くなり、部屋に戻ってからしばらくベッドに横たわった状態だった。ようやく覚めてシャワーを浴びようとして洗面所に行った。タイル貼りの壁でかなり広めのバスではあるが、固定式のシャワーになっており、お湯を出そうとしたが、水がなかなか温かくならなかった。シャワーから出る水は、少し濁っていた。バスルームには、石鹸もシャンプーもおいてあった。「海外なので日本のようにアメニティーグッズも思っているような感じに揃ってないのは、仕方ないな。」と思いながら、シャワーを浴びて、ベッドのある部屋に戻り、窓の外を見た。窓からは、主体思想塔の先端の灯りが見えていた。街全体が暗い感じがする。また、住宅棟には、ポツポツとオレンジ色の灯りがついているのだが、私個人の感想としては、その住宅棟に、あまり生活感が感じられなかった。テレビをつけると軍人の何かの映像が流れていたが、よくわからないので消した。
 とりあえず、今日一日会談などに同席した時にメモを取ったノートを見て、その内容を思い出しながら修正をしたりした。それを終えるとやることもなかったのでベッドで横になりながら本を読んだ。寝るとなると部屋の鍵は、中からは、かけている状態にはなっているが、キーがないというのはやはり落ち着かない。初日は、なかなか寝付けなかった。
 2日目の朝、高麗ホテルの30階だったと思うが、そちらの個室に用意された朝食を野中先生、金丸信吾さん、私の3人で食べ、同じ階の別の部屋では、労働党の指導員たちが、朝食を取っていた。私たちが食べていると突然、カーキ色の人民服のようなものを着た金容淳書記が入ってきて、「おはようございます。このような服で申し訳ない。これから地方に行きます。その前に挨拶に来ました。今日は、何もお相手できないですが、彼らが案内しますので、よろしくお願いします。」と言われた。私たちは、食事していたのを止めて3人とも立ちあがり野中先生が、「容淳書記、わざわざ、お忙しいのに、挨拶にきていただいてありがとうございます。今日は、彼らと視察をさせていただきます。お気遣いいただき感謝します。」と返答された。ひと通り挨拶をすると金容淳書記は、ホテルを出発された。私たちも食事をしていた部屋から一旦自分たちの部屋に戻った。出発の用意をして労働党の指導員と一緒に野中先生の部屋へ迎えに行った。野中先生も部屋から出てきて、一緒にロビーに降り、全員揃ったところでホテルを車で出発した。
 この日は、金丸信吾さんの希望で平壌郊外にあるゴルフ場を見に行った。金丸信吾さんは、山梨県でゴルフ場を経営されているのでゴルフ場のことは詳しい。到着するとゴルフ場のコースを少し歩いてまわった。日本のゴルフ場に比べるとまだグリーンなどは、綺麗には、整っていなかったし、整備されている途中であった。何組かがゴルフをされていたが、クラブハウスにハーフラウンドをして戻られたグループが、日本語を笑いながら話されていた。
ゴルフ場をひと通り見終わると時間は、昼を少しまわっていた。
また、車に乗り込み、少し走らせると小高い丘の公園のようなところに到着した。労働党の指導員に着いていくと案内されたところには、20人ぐらいの労働党のメンバーが来ていて私たちを待っていた。私が、以前ニューオータニの金丸・田辺訪朝団実務者会議で代理出席をした時に、代表で来日していた労働党の課長が来られていた。野中先生がひとりひとりに握手をして挨拶された。そして一行は、ブルーシートを敷いたところに行った。そこには、丸石を積んで囲まれているところに、バーベキュー台が置かれていた。横には、椅子が置いてあり、そちらに座るように促された。焼酎やペットボトルの水、コーラなどが用意されている。また、お皿、お箸などももらった。クーラーボックスに入っているハマグリを石の上に置き、ひとりが、瓶に入っているガソリンのようなものをハマグリの上から落として火をつけた。炎が高く上がり、数分してハマグリが口を開けてうまい具合に焼けた。それを皿に乗せて渡された。初めての食べ方であったが、いい香りで美味しかった。親睦を深めるために労働党の日本担当であろう方々が開いてくれたバーベキューだった。私は、課長を以前お見かけしたことを話した。そして、その会話をやりとりした中で印象に残ったのは、課長が初めて日本人と話をした時に、「こちらは、お米は、おいくらですか?」と聞かれた時に、「私たちは、配給制で買ったことがなかったので答えようがなかった。お米の値段とか言われていることも最初はなんのことか理解出来なかった。」と話されていたことだった。確かに、日本と北朝鮮では、制度が全く違う。日本人が常識と思っていることでも向こうでは、全く理解できないものもたくさんあると思った。また、日本から見ると電力事情や住宅事情、通信の状態なども、ものすごく遅れているかもしれないが、こちらでは、それが普通であって日本のようなことを人々は、体験もされてない。「この状態が日常なんだ。」と話をしていて自分なりに理解していった。
徐々にお互い打ち解けていくと、野中先生、金丸信吾さん、私の3人の中で多少お酒を飲めるのは、金丸信吾さんだけだった。信吾さんは、焼酎を何杯か回し飲みをして飲まされておられた。「あー、酔った。もう飲めないわ。」と言ってお腹を抑えて笑いながら立ち上がられた。「俺は、あまり酒は強くないんだよ。親父に似たところはないよ。」と笑いながら言われた。5月でちょうど気候もよく爽やかな風も吹いていた。そうしているうちに、バーベキューも終わり、また、車に乗り込んでホテルへ戻った。
私は、もう少し平壌市内を観光して見てみたかったが、野中先生や信吾さんは、前回の訪朝団でだいたいのところは見られているので、部屋でゆっくりされるほうがいいようだった。少し早くホテルに戻ってきたので、労働党の指導員から「まだ、食事まで少し時間があるのでどうされますか?」と聞かれた。野中先生と信吾さんは、部屋でゆっくりするとのことだったので、私は、「日本に帰った時に渡すお土産を買いたいです。」と伝えた。野中先生と信吾さんが休まれている間に高麗ホテルのすぐ近くにあるデパートに労働党の指導員に連れて行ってもらった。そのデパートは、日用品や洋服など売っていたが、お土産になるような物は、なかった。内部は、照明は明るいが、店員さん以外に、人はあまりいなかった。
デパートでお土産になるようたものがなかったので、ホテルに戻り、ロビーにあるお土産を売っている店舗で高麗人参などいくつかのお土産を買って部屋に戻った。
 私は、お土産を調達しに行ったので夕食までちょうど良い時間になっていた。
 この日の夕食は、ホテルの高層階の朝食を食べた時と同じ部屋でセットされていた。その部屋に行くと既に、スーツを着た金容淳書記が待ってられた。円卓にみんなが座ると食べ物が運ばれ、焼酎や飲み物などが並んだ。コーラやサイダーがあった。ラベルは、中国語で書かれていたので、中国から入ってきているものである。一緒に食事をしながら今日の話などをした。そうして食事を終えて明日の再会の約束をして部屋をでた。野中先生を先に部屋に送り、信吾さんと私、労働党の指導員と4人が自分たちの部屋に戻ろうとすると話しの流れから、ホテルの最上階のラウンジに行こうか。という話しになった。そうして最上階のラウンジに行くと、既にテーブルには、何組かのグループがそれぞれ座っていた。私たち4人がテーブルに着くとラウンジのボーイが、注文を取りにきた。私と労働党の1人はコーラ、信吾さんともう1人は、ウイスキーの水割りとおつまみを注文された。落ち着くとそれでれのテーブルの話し声が聞こえた。何組かは、中国語を話していたが、私たちの真後ろのテーブルは、日本語だった。私は、気になったので、そちらの会話を聞き取るために神経を集中した。話を聞いていると労働組合の話をされていた。話しの流れを聞いていたが、その方たちは、平壌は、初めてではないようであった。私は、「そうなんだ。こうして日本人も平壌に何回か来ている人もいるのか。」と初めて知った。ラウンジは、平壌を一望できて、ラウンジの床がゆっくり回転して動いていくもので一周をぐるりと回って景色を楽しむのであるが、全体的に平壌市内は暗く、遠くにオレンジ色の灯りが灯っている風景とラウンジ内の騒がしさが対象的な感じがした。
今日のところはこの辺で書くことはとめでおく。
(次回に続く〜。)

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