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国会議員の秘書 37(自民党総務局長)

 平成3年の11月に宮澤内閣が発足して綿貫民輔先生が自民党の幹事長に就任され、その元で野中広務先生が党の総務局長に就かれることになった。現在は、選挙対策委員長という党三役クラスの選挙対策を担当するポストが設置されているが、当時は、幹事長の元で総務局長が選挙の実務的なことを取り仕切り候補者調整などをする重要なポストであった。総務局長か、党のお金を管理する経理局長のポストに当選4回から5回の議員が就任する。各派閥では、このポストを水面下で取り合いをしていた。
選挙がある時の総務局長は、各派閥にとっては自派の議員を増やすためにほしいポストであった。選挙のある年には、総務局長には、党から車を割り当ててもらえるのであるが、野中先生が総務局長になられると同時に、私は、選挙のある年なので総務局長車が割り当てられることを期待していたが、なかなか車が割り当てられなかった。
私は、「運転から少し離れられるな」と就任直後は、思って喜んでいたが、相変わらず運転する日々が続いた。しかし、思い直して「せっかく自民党本部の5階に先生が総務局長室という部屋をもらえたのだから、党本部の中を見せてもらうために、出来る限りその部屋に詰めていこう。」と思った。
 振り返ると総務局長室にお邪魔していたお陰で、その時に知り合った方々とは、今も尚お付き合いしていただいてお世話になっている。自民党本部の事務局の皆さんや記者さん、官僚、企業、各種団体の方々などとのご縁が出来たのである。毎日、総務局長室に来られる人と会うのが楽しかった。しかし、一つだけ困ったことは、私たち秘書は、自分の仕えている議員よりも先に食事することは出来ない。議員よりも後に食べて先に食べ終わっているというのが、仕えている秘書の鉄則だと思っていた。そういうことから、毎日、野中先生が総務局長室でお客様や打ち合わせなど日程を目一杯入れられていたので、昼ご飯を食べるのが昼をとおに過ぎた頃になる。党本部9階にある食堂の定食などのメニューは、私たちが食べられるようになる時間には、既に無くなっていた。食堂には、カレーライスしか残っておらず仕方ないので、カレーライスを月曜から金曜まで毎日、食べることになった。もうカレーライスで身体が黄色くなりそうな思いをしたこともあった。私が総務局長室に出入りするのに慣れてきた頃、少し身体が怠くて赤い斑点が出来てきたので仕事の合間を見計らって衆議院の第二別館の診療所に行って診察をしてもらうと「風疹になっているので、すぐに自宅に帰って待機しなさい。」と医師から言われた。事務所に戻って、そのことを告げると事務所の先輩秘書に早く自宅に帰るように言われた。私自身は、それほど身体が辛いというのはなく、「久しぶりにゆっくり堂々と眠れる」と内心喜んで自宅に帰った。
すると私が休んだことにより、野中先生の車を運転する者がいなくなったので自民党本部の事務局の方が気を回して野中先生に党の割り当ての車を手配してもらった。私は、それを聞いて自宅待機しながら「ようやく車が先生に割り当ててもらえた。」と喜んでいた。そうして風疹が完治して自宅待機も終わり、出勤すると今度は、総務局長車の運転手さんが風疹に罹ってしまわれたのであった。
 5月の連休が終わると参議院議員選挙を控えて、各選挙区の候補者調整や参議院の比例代表の順位の調整が本格的に始まった。先般、自民党の総裁選に立候補された高市早苗先生は、自民党のある幹部の方を通じて奈良選挙区から出馬をしたいとの意向を伝えに来られていたり、また、村上正邦先生の秘書をされていた小山孝雄先生が、村上先生の秘書としてよく総務局長室に出入りされていたことを覚えている。また、当時は、参議院比例区は、名簿搭載順位で上位から当選が決まったために、党員集めと名簿集めに候補者の各陣営は、東奔西走されていた。ある組織内候補などは、党員を600万人集めたり、霞ヶ関の役所の幹部が担当して役所出身の候補者を全面的にバックアップをし、業界団体に働きかけるなどをしていた時代で、また、自民党員が日本の人口より多いと言われた時代でもあった。
野中先生は、竹下登先生や金丸信先生に逐一報告しながらも各候補者の陣営の活動を見て配慮しながらも公平に比例の順位や選挙区の調整を党執行部に上げるためにされていた。しかし、選挙区でも比例区でも経世会のある幹部から強引なことを言われて筋道が通らないこともあり、抵抗をされていた。その幹部は、野中先生が抵抗すると党の事務局にまで、無理を言って党内を誘導するような動きもされた。野中先生がそのやり方に対して怒りを抑えてられるのを見ていて、その幹部に対しての気持ちがだんだんと離れていっているのが私にもよくわかった。また、野中先生自身が、思い入れのあった沖縄にも調整に、頻繁に行かれていた。
この時の参議院議員選挙では、PKO協力法が争点でもあったが、それとは別に、細川護煕先生が率いる日本新党のブームもあり、前回の参議院議員選挙で惨敗した自民党が比較第一党になるかが注目された選挙であった。自民党は6議席減の69議席を獲得して比較第一党としては議席を守れたが、参議院の過半数には至らなかった。という結果である。

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