国会議員の秘書 39(後援会旅行の下見①)
金丸信先生が副総裁を辞任され、経世会の内部が混乱している最中ではあったが、野中広務後援会連合会が毎年恒例の後援会行事としてしていた海外旅行の予定が迫っていた。毎年開催される後援会連合会の海外旅行は、戦没者の遺骨が残されているところに慰霊の旅ということで尊い犠牲となられた英霊や現地で戦闘に巻き込まれて犠牲となられた方などの供養を兼ねて、京都府下の後援会から300人程度の定員で募集して開催されていたが、大変人気の行事だったのですぐに満杯になっていた。また、毎年、現地で慰霊法要をするため現在善光寺の第104代の大勧進貫主をされている栢木寛照先生(比叡山麓三宝莚住職)にご一緒していただき法要していただいていた。
このように毎年、戦没者慰霊の旅をしていたのだが、この年は、いつもと少し違う海外での後援会旅行が企画された。それは、今尚、遺骨も残されたままになっている国交のない朝鮮民主主義人民共和国に後援会で訪問するという企画だった。当時は、金丸・田辺訪朝団以降、日朝航空交渉も合意され、名古屋-平壌の直行便が週1回程度行き来することになっていた。後援会旅行には、私は、随行してはいなかったのだが、この後援会旅行の企画をするために、事前に、下見に平壌へ行くのを同行するように野中先生から言われた。
このnoteの前号に書いている内容の時間が少し戻るが、この年の参議院議員選挙の少し前の6月初めに平壌に私たちは、行ったのである。
旅行社をされている野中先生の一番下の弟の禎夫さんと代理店の2名の方と私の4人で下見に行った。平壌には、北京を経由して行くのであるが
北京-平壌便は、毎週火曜日北京出発の土曜日北京戻りか、土曜日北京出発の火曜日北京戻りの週2便だった。日本を月曜日に出発して北京に到着して火曜日に北京から平壌に行くことになるので、北京で1泊することになる。私は、海外旅行で下見という名目で初めて観光出来るので内心喜んでいた。
北京空港は、現在、巨大で綺麗な空港になっているが、当時の北京空港は、空港の管制塔も小さく空港自体が古くてコンパクトな空港だった。入国手続きを済ませて空港から出ると手配されていた車が迎えに来ていた。空港からホテルまでは、1時間半ぐらい車で走ったと思う。ホテルまでの道中は、舗装もされてない道もあった。道路の脇には、牛に農作物を積んで歩いている人やスイカや野菜を並べて売っている人などが見受けられた。田畑の風景が広がり、何か懐かしい雰囲気の光景であった。「日本より何年も遅れているな」と思いながら車から見える景色をぼんやりと見ていた。北京市内の中心地まで高速道路も通ってない時代だった。それでも北京市内の中心部のホテルに行くと、それなりに街は、発展はしていた。野中先生の弟の禎夫さんがいろいろと気を配ってもらい初めての北京だったので万里の長城や故宮博物館などの観光もさせていただいた。
そうして、翌日、北京空港から平壌空港へと朝鮮民航の飛行機で平壌へ向かって飛び立つた。朝鮮民航の飛行機は、ロシア製の機体で相当古いものと感じた。内装の繋ぎ目などから綻びがあり、飛行中、私は不安を感じていたが、北京から2時間程度で平壌に到着した。パイロットは多分軍人なのであろう着陸などの振動を感じることなく安定した操縦だった。
平壌空港では、労働党のいつものメンバーが出迎えに来てくれていた。パスポートは、また、空港で彼らに預けたままになったので一緒に行った旅行代理店の方は、不安がっていた。労働党の指導員に用意してもらった車に、1台は、野中先生の弟さんと私が乗り、もう1台には旅行代理店の方が2名乗車した。どちらの車にも助手席には、労働党の指導員が通訳として乗った。私は、2度目の訪朝であるが、東京から北京へきた時の風景を見るとやはり東京は、都会だと思ったが、さらに北京から平壌に行くと北京が大都会に思えた。平壌空港から40分ぐらい車を走らせて平壌市内の高麗ホテルに到着した。チェックインを済ますと、また、部屋の鍵が私たちにもらえないので旅行代理店の方は、不安がった。私は、致し方ないいと思い、「大丈夫ですよ」と笑いながら伝えた。部屋に入ると持ってきた荷物はすでに、届けられていた。暫く部屋で休憩してからロビーに集合し、万寿台の記念碑のところに行き、主体思想塔などにも行った。
ひと通り平壌市内を観光すると以前私の行ったことのある労働党の建物があるところに車が到着した。車から降りて労働党の指導員に着いていくとマイク付きの大きなテーブルがある会議室に案内された。野中先生の弟さんの禎夫さんを真ん中に座ってもらい私たちは、両隣に座った。お茶とペットボトルが運ばれて、5分ぐらいすると背の高いオールバックの髪型で面長の男性を先頭に何人かがその部屋に入ってきた。握手をして名刺を交換すると、その名刺には、『朝鮮労働党 国際部副部長 金養建』と書かれていた。「国際部長が金容淳書記なので、その下の副部長が出てきたのか。」と思いながら、私は、自分の席に座った。そうして、ひと通り名刺交換と握手が終わり私たちと先方が、全員テーブルに座ると金養建副部長から話し始めた。内容は、歓迎の挨拶と今回の主旨である日本から後援会旅行に来られた時には、歓迎すること、日朝の民間交流は、重要と考えていること。また、金丸先生は元気にされているか?という質問。野中先生に帰国されたら、ぜひ後援会旅行に一緒に来られることを待っている。ことなどを話された。こちらは、野中先生の弟さんが代表して歓迎してもらったことのお礼と後援会旅行を成功させたい。また、今回、いろいろなところを見せてもらって企画を考え、後援会旅行だけでなく、両国の民間交流の機会を増やしていきたい。などの挨拶をされた。だいたい通訳をはさんで1時間半ぐらいのやり取りがあった。私は、初めて訪朝した時よりも、今回は、気が楽でいつもの仕事モードから観光モードに気持ちが傾いていた。
この会談を終えると、北朝鮮側から後援会旅行を受け入れるということにオッケーが出たので、ほとんど今回の訪朝の目的も終わったも同然であった。私は、「今回は、じっくり観光が、出来るな」と思って労働党の建物の玄関に歩いていくと金養建副部長も玄関まで私たちを見送りに出て来られた。初日の日程を消化したので一旦高麗ホテルに戻った。(続く)