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元補欠が『補欠廃止論』を読んで(読書感想)

先日の高校野球で注目を浴びた滋賀学園の応援。ノリノリかつキレキレなダンスに対して賛否両論の声が上がった。

それをきっかけに私自身も部活動における「補欠」について考えを巡らせていた中、この本に出会った。日本スポーツ界に根づく慣習や考え方について問題提起した一冊だ。
※ここでの「補欠」とは「試合に出る可能性が全くないベンチ外の選手」を指す。ベンチ入りしている「控え(リザーブ)」の選手は含まない。

子どものスポーツの世界から補欠を廃止すべきだという著者の主張は、非常に共感できるものだった。

確かに、1つの学校から複数チームがエントリー可能な大会規定に変更したり、1人の選手が複数チームに所属できる登録制度に改定する等、より多くの選手が試合経験を積める環境の方が望ましい。

特に印象に残ったのは↓の部分だ。
〈引用〉
「補欠は忍耐力が身につく」と唱える人もいる。そんなに耐えることが美しくて大事ならば、学校や塾にも補欠を作ったらどうだろうか?それは絶対に作らないはずだ。
〈引用終わり〉

言われてみれば、学校や塾において「貴方は成績が悪いので授業には参加できません。ですがきちんと登校して教室の外から仲間の生徒達を応援しましょう。」なんて事はあり得ない。だが野球やサッカー等の部活動ではこれに近い事が起こっており、「試合に出られなくても全力で応援している補欠は素晴らしい!」と持ち上げられている。

私自身、中学~高校~大学の10年間サッカー部に所属していた。その中で過ごした時間を大まかに区分すると以下の通りだ。
・計1.0年間(10%):レギュラー
・計1.5年間(15%):控え=リザーブ
・計7.5年間(75%):補欠=ベンチ外

つまり、ほとんどの期間を補欠という立場で過ごしたのだ。試合出場を目指し毎日自主練に励んだり、悔しい気持ちを押し殺しスタンド応援で声を出したり、良い経験になったとは思う。前向きに取り組む姿を部内外の方々に賞賛される事もあり、それはそれで少し嬉しかった。

だが今になって思い返すと、

●なぜ当時は「試合に出られる訳でもないのにスタンドで応援し続けること」に疑問を抱かなかったのか?
●もっと活躍できるステージを探して様々な事に挑戦した方がより良い経験を積めたのではないだろうか?
●「補欠の立場で頑張った経験は社会で役に立つ」という声もあるが、『学生時代に長年補欠だった人』よりも『試合や大会で活躍した人』『見切りをつけて異なる分野で成功した人』の方が、社会でも活躍・成功している傾向があるのでは?
(完全に私個人の感覚だが・・・)

と感じる。

もちろん、人生において何が大切かなんて人それぞれだ。補欠の人間を否定・揶揄する気は毛頭ない。だがしかし、子どもや学生のスポーツ界で補欠が大量発生している現状から目を背け『感動』や『美談』で終わらせてはいけないと思う。補欠ゼロは難しくとも、減らせるような仕組み作りの重要性に気づけた。

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