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「学習」とは学ぶ「習慣」

 前回の記事で「勉強と学習とは異なる行動である」と述べた。ここからは、しばらく、「学習」について書こうと思う。

 結論から言おう。学習とは習慣である。良く言えば「当たり前の感覚で出来ること」、悪く言えば「無理にやっても続かないこと」だ。

 学習という言葉は「学」と「習」からなる。「学」については次回にゆずるとして、今回は「習」について述べたい。「習」の意味を調べてみよう(言葉の定義を確認することは、思考においてとても大切だ)。辞書を引くと、「習」とは「繰り返し練習する」「ならい(習慣)」「重なる」 とある。つまり、同じことを繰り返すのが「習」なのだ。

 大切なのでもう一度言う。「習」とは「同じことを繰り返すこと」である。

 


 ところで、貴方は朝起きてから歯を磨くだろうか?・・・私は必ず磨く。夜の間に口内に何かが溜まった感じが気持ち悪く、歯磨きしなければ私の1日は始まらない。自分がこれまで何回歯を磨いたかなど数えられないし、数える気にもならない。ただ、私は毎日歯を磨く。

 思い起こせば、幼児期の私は歯磨きが嫌いだった。面倒だったし、「母親が強制してくる」のも嫌だった(もちろん、強制されるなどという感覚はまだなかった。漠然とイヤだなと感じていた)。歯ブラシを持って追いかけてくる母親から逃げ回っていた記憶が微かに残っている。

 私にとっての歯磨きがいつから「同じことの繰り返し」になったのか、なぜ「同じことを繰り返す」ようになったのか、それは私にも分からない。はっきり言えるのは、あれほど嫌がっていた歯磨きはいつしか私にとって当たり前の行動となっていた。そこには「計画的に」や「頑張って」という感覚はなく、歯磨きするという習慣がただ残った。そしてその習慣は今も続いている。

 同じことがいわゆる「学習」にも言えるのである。貴方が「これから計画的に◯◯をして」とか、「毎日◯時間かけて〜」と決意したとしよう。同じ行動が1年後も続いていることはマレである。誰もが経験したことがあるだろう、「三日坊主」というやつだ。

 反対に、1年経っても続いている行動とはどのようなものだろうか? 「将棋弱いけど、何となく将棋ウォーズやっている」「天鳳チャオった(一応、麻雀についても呟くnoteだ。「チャオ」を知らない人にも、雰囲気は伝わるだろう)けど、気がついたら対戦画面を開いてる」「理科は小学生の頃から苦手だったけど、少しずつ取り組んでいたら、もう10年経ってた」・・・etc。ちなみに、賢明な読者にはお分かり頂けると思うが、全て私自身のことである。おそらくここに、「何となくnote始めたけど、何となく続いている」も加わることだろう。

 これらの行動は、私が一念発起して始めたことではない。むしろ、どちらかと言えば「よく分からないけど、面白そうだから何となく始めてみた」ことであり、「何となく続けていること」だ。損か得かで言えば得ではないか?と感じるから続けている。深い理由はない。そして、この「何となく続けていること」こそが習慣なのだ。

 学びは「楽しい」上に「得である」(このことについてはいずれ詳しく書きたい)。だが、そのようなポジティブな実感が持てない人が「無理に」学習しようとしても、おそらく良い結果は生まれない。やろうと思わないことは、貴方にとっての習慣にはならない。

 逆に、何となくやろうと思ったときは新しい習慣が始まるチャンスである。塾講師として多くの生徒達を見ていて思うことは、やろうと思ったときに後押ししてくれる他人(子どもの場合は、特に周りの大人がその役割を担う)に恵まれたか否かの違いは大きいということだ。(もちろん、大人にとっても後押ししてくれる他人の存在は大きい。noteにスキをしてもらえるのがこんなに嬉しいことだとは知らなかった😍😍)

 学習について考えるとき、まず知っておくべきことは、学習とは習慣であるということだ。習慣は無理に始めることでもなければ、無理に続けることでもない。嫌ならやらなければいい。歯磨きから逃げ回っていた、幼い頃の私のように。

 だが、もし何かを始めてみようと思ったら、少しの勇気を出して始めてみることを勧める。40過ぎてからnoteを始めた(実際に始めるにあたっては、実はかなりの勇気を要した。これについてはいずれ述べたい)私のように。きっと、新しい世界が貴方を待っているだろう。

 そして、もし始めたことを「何となく」続けてみようと思えたならば、「何となく」続けるのが良い。「何となく」楽しくなり、気がつかないうちに「何となく」何かが身についている。

 何となく続けていることが、気がつけば自分にとって大切なことになっている。学習という名の習慣もその一つなのである。

 


 



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