歌詞に「Twitter」とか「インスタ」とか出すな、なんか冷めるから
流行りの曲を聴いていて、「Twiitter」とか「インスタ」とか、身近な俗っぽいワードが出てくると萎えてしまう。なんか、途端に歌詞の世界に没入できなくなる。飲食店に行ったときに厨房を見たらデカデカと「業務用」のラベルが貼られた調味料が置いてあって一気に現実へと引き戻されるあの感覚に似ている。
私は別に、歌詞に高尚さを求めているわけでもないし、必ずしも文学的世界観であってほしいわけではない。今や令和も7年目、インターネットネイティブ世代がクリエイターとなった今、歌詞の中にTwitterやインスタといったデジタルなワードが出てくるのは自然の流れなのだろう。聞き手としてもむしろそのほうが情景をイメージしやすいという人も多いかもしれない。
でもなんか、冷めてしまう。「うわ安直!」と思ってしまう。現代においてTwitterやインスタが、あらゆる感情が渦巻く文学的世界としての役割を果たしていることは認めるし、リアル以上に多様なコミュニティを包括するプラットフォームとしても機能しているのは間違いない。
私たちの複雑に絡み合ったこの電脳的愛憎を「Twitter」「インスタ」などという言葉は説明なしに容易に代弁してくれる。便利な言葉だ。
でもなんか冷めちゃうんだよな~。言いたいこともわかるし、使いたい気持ちもわかるんだけどさ。
あと他にも「リプ」とか「既読」とか「通知」とか、それらに付随してくるワードにも同じような感情が湧く。単語としては旧来から存在する普通名詞だが、これにも同じく俗っぽさを感じてしまう。
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ところで、同じコミュニケーションツールである「メール」とか「返信」などのワードにはあまり抵抗感がない。これは何故なのか。
「メール」という文化は実は歴史が長く、電子メールこそは誕生してから日が浅いものの、紙のメール(要は手紙)についてはもはや紀元前から存在する。インスタなどの新参者が太刀打ちできるような存在ではないのだ。といっても、単に歴史の長さだけがこの俗っぽさをかき消す理由にはならないと思う。
文通がもはや珍しい文化となった今、歌詞の中に出てくる「メール」が、紙のメールを指すケースはほとんどないのではないかと思う。概ね電子メールのことを指すだろう。しかし、電子メールを指す「メール」が歌詞の中に登場しても、個人的にはあまり俗っぽさを感じない。
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ここで私の考察を述べたい。
メールというのは主に1対1のやりとりである。送り手から受け手へ送信されるその文面は、受け手のことを第一に考えた内容のみで構成されている。ゆえに、そのコミュニティは二人っきりの世界であり、他に複雑な電脳的愛憎模様は存在しない。
この"ひたむきさ"が、俗っぽさを感じさせない理由のひとつかもしれない。愛ゆえに、である。俗っぽさ=軽さ、であると私は考える。
インスタやTwitterなどの、承認欲求を満たすための場で交わされた愛の言葉には、それ相応の重みがなく安っぽささえ感じる。そこに純粋な愛はあるんか? と問いたい。
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電子メールが一般に普及したのは1980年以後のことらしいが、それでは他の電子コミュニケーションツールが歌詞に登場したとき、たとえば電話やポケベル、それを聴いた人々はどのように受け止めたのか。やっぱり、うわ、俗っぽいな~軟派だな~と思ったのだろうか。世相を知りたい。
意中の人を呼び出すなら手紙、告白するなら対面が一般的だった時代を生きた人々にとって、送り手の顔も見えない文章だけで愛の言葉を伝える文化は、きっと雲よりも軽かっただろう。てことで、想いは直接伝えるべし。