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浮かんでは沈む。移ろいでは見えなくなる。

聞く度に胸が苦しくなる音楽がある。遠いところに置き去りにしたはずの記憶を強制的に呼び覚まし、塞いだはずの過去の中に引きずり込んでしまうほどの力がある。気軽には聞けない曲のはずなのに、たまに無意識にその曲を選んでしまう。目に見えない形で自分で自分に傷をつけてしまう。


日々を退屈を感じるとnoteを書きたくなる。文章にすればある程度この生活を昇華できる気がして、期待してついアプリを開いてしまう。だけど書いても書いても書き続けても、赤黒く濁った感情の処理の方法はわからないままだ。もうかれこれ二年半ほどずっと胃の奥に居座っている。ドロドロでグチャグチャなのに、消化液でも溶ける気がしない。気持ち悪い塊のまま、わたしの一部となっている。


人間の本質って、何を言うかじゃなくて何を言わないかにあるんじゃないかと最近ようやく気づいた。言わなくていい事の方が世の中多い。口にしないことで、知らず知らずの間に誰かを傷つけずに済むこともあるかもしれない。伝えることばかり考えてきたけれど、「伝えない」ことにもっと向き合いたい。人のことを第一に考えられる自分になりたい。想像力や知識がないせいで誰かを傷つけたくない、これ以上。大切な人とこれからも一緒に歩くためにも。

大人になればなるほど青春の埋め合わせってできなくなると思う。手のひらにあったはずの大切なものが、指のすき間から砂のようにサラサラと落ちていく気配がする。季節の移ろいに気づけなくなるのが怖い。こんぺいとうが星のカケラに見えなくなる日が来たらどうしよう。そんな漠然とした不安を抱えたままそのうち21歳になって、年を重ねていくのかな。でも、こんな風に固執しすぎて進めないのも嫌だ。難しい。

入ってこないで、と強く線を引く。人を呼び寄せない領域を設ける。好きなものを誰にでも見せるのは自殺行為だ。好きなものを誰にでも見える状態にするのは、臓器を剥き出しにして外を歩くようなものだ。敵だらけの生活を生き抜くために大切なものを必死に守り抜いていた。今でもその癖が抜けてないみたいで、少しだけ悲しい。守らなくてもいい世界がいい。



ずっとずっと特別なのは高校3年生の3月だけだと思っていた。もはや季節のひとつだった。淡い光を放つビーチグラスのように輝いていた。信じられないほど綺麗で、脆くて、あの時で終わっていればよかったと何度も苦しくなった。
他にもあった。幸せで、本当に楽しくて、この時間が永遠になればいいのにと何度も願って、ここで終われば完璧なのにと思ったこと。
でも、その何ヶ月か後にさらにそれ以上の景色を見ることができて、まだわたしはここでこうして生きていたいなって思った。ここで終われ、じゃなくて、もっと進みたいと思った。生きたいと思った。


海沿いを走る電車に乗りたい。電車で眠る時間が好きだった。あの心地よい振動に身を任せて微睡みの中に沈んでいく感覚が好きで、高校の通学時間はほとんど寝ていた。電車は楽だ、知らない間に遠くへ連れてってくれる。無性に、電車にまつわる言葉が含まれている歌や小説に惹かれてしまう。最終電車、各駅停車、地下鉄、貨物列車、寝台列車。ここではないどこかに連れ出してほしい。形の定まらない理想郷は、思い浮かべる度に違う形を描いている。


浮かんでは沈む心に振り回されながら、思いつきで指を走らせる。そんなもんだよ、そんなもん。

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