感情だけが
思い出の本を買った。3日ほど前のことだ。
中学生の時に図書館で借りたティーン向けの小説。1、2回読んだだけなのでもうほとんど内容は覚えていない。記憶の端に追いやられつつあった本を、再び手に取りたくなった。別にあの頃に戻りたいとかじゃない。ちょっと思い出してみたくなっただけ。あの頃の感性はもうどこにもないし、二度と戻らないものだ。けれどあの頃わたしはこれを読んで何を感じていたのかを知りたい。そして、今のわたしはこれを読んでどんな感想を持つのか、何を思い出すのか知りたかった。
最初はひたすら懐かしい!が先行していた。身近に純粋階段がないかあちこち思い浮かべたことや、雲形定規が実在するものだと知った時の感動も思い出せた。ほかにも、受験日よりも前に卒業式があるため進路が決定的になる前に卒業してしまうことの不安や、クリスマス以外でも特別なイベントの前日に「イヴ」をつけて呼んでいた中学時代の癖はこの本がきっかけだったのか、と徐々に色んなことを思い出していった。
この本は全5話の短編集、あっという間に4話分を読み終え、いよいよ5話目。最後の話がいちばん苦しいことをわたしは知っている。内容に関しては断片的な記憶しかない。大丈夫だろうか。気合いを入れてページをめくった。
なるべく軽やかにキャピっと喋ることを心掛けている、雨の日の屋上、無自覚だった恋心と戸惑い、抜け落ちてしまった大切なネジ、謝罪なんて名ばかりの悪意に満ちた言葉……。
軽い気持ちで買って軽い気持ちで読み始めたけれど、なんだかあの頃の自分に無遠慮にベタベタと触れているような感覚になり一度本を閉じた。羞恥心、劣等感、不信感。あの当時のわたしはこれだけ色んな感情が渦巻いていたのか、と驚いてしまう。わたしが覚えていたのは、甘酸っぱさと少しのもどかしさ、ときめき、そして優しい夏の風だけだったのに。
そう、わたしが思い出したかったのは中学1年生の時の夏から秋にかけての季節だけだった。何年経っても何度同じ季節を巡ってもいつまでも特別なものだった。もう色褪せてきて、少しずつ思い出せなくなって、透明になりつつあるけれど、それでも特別だった。だからきっとこの本を読んだら当時の眩しさにクラっとして、少し切ない気持ちになるのかな、なんて軽く考えていたのに……。
「良くも悪くも、わたしの人生を変えてしまった数人のうちの一人」
「できるだけ鈍感に」
「嫌われているかもしれないという前提で」
わたしこれ読んだの本当に中1の頃だっけ。
1年生の夏に図書館で借りたのだと、これまで信じて疑わなかった。でも心がリンクするのは2年生の頃の記憶だ。
2年生のことはあまり思い出したくない。むしろとっとと忘れたい。その気持ちが強すぎて記憶が混ざってしまったのかもしれない。
空気が読むのが苦手で、周りが全然見えていなかった。そのせいで地獄行きのレールを自ら引き当ててしまった。心の中は言い訳だらけで、毎日ずっと内側で小さな爆発を何度も繰り返していて、けれど学校に行かないという選択をする勇気もなくて、惨めで情けなかった。
誰にも相談できなかった。誰も助けてくれない気がした。そんなことで悩んでるの?なんて軽く言われたら絶対に立ち直れない。わたしだって「そんなこと」でって思ってる。わたしなんて全然マシな方だと思う。だからこそ言えない。
1人でなんとかしないといけない、耐えないといけない。たった一年、一年我慢すればいい。一年なんてこれからの人生の長さを考えたら誤差みたいなものだ。大丈夫、大丈夫……。
今でもどうすればよかったのかわからない。何から矯正していけばよかったのか、どこで間違えてしまったのか、防ぐことはできたのか、遡っても遡っても過去が変わるわけじゃないのに。
中1の夏から秋、なんて限定的な季節じゃない。綺麗なところだけ切り取るなんてそんな都合のいいことできるわけがない。その前後を含めたもっと長い時間が丸ごと凝縮されている。だからこんなにも心がざわつくんだ。だからこんなにも苦しいんだ。
成人式を終えて、今後中2の時のことは一切書かない、触れないと決めていたはずなのにリミッターが外れてしまった。別に引きずってるわけじゃない。普段の生活で思い出すことも今はもうほとんどない。完全に過去として扱っている。
感情だけが怒涛のように走り抜けて行った。具体的な出来事は何ひとつ思い出せないのに、ただそこに感情だけが残っている。それすらも輪郭がなくてぼやけていてひどく曖昧だ。なのに「在る」のは確かで、それがすごく苦しい。思い出せないのに感情だけがのしかかってくる。思い出せないのに雨だけが降り続けている。誰もいない通学路、ジメッとした重い雨、冬でもないのに寒くて凍えそうだった。これがわたしの過ごした毎日か。
あの頃の自分は思った以上に遠い存在になっていた。やっぱり過去の自分は良くも悪くも他人だ。それでも今の自分と地続きで繋がっていて、逃れることはできない。
今のわたしはこれを読んでどんな感想を持つのか、何を思い出すのかって冒頭で書いたけど、色々思い出して感情の波に揉まれて最後に残ったのは、ちゃんと決別できてよかったな、ということ。何がどうとかうまく言えないけど肩の荷が降りた。
わたしは過去をようやく許せたのかもしれない。