偶像の中に見る真実の振りをした幻想
おはこんばんちは、あなたの隣人伊達です😇
今回も私のお気に入りのアーティストさんの宣伝をさせて頂きます。アーティスト名はCö shu Nieさんです。
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では、本題に入りたいと思います。
単刀直入に言いますが、「信じる」ってなんでしょうか?相手の事を疑いなく全て同意することでしょうか?
相手が「カラスは白だ」って言えば、「カラスは白なんだ!」って思う事でしょうか?皆さんはどうでしょうか?言葉の定義としては当てはまりますが…。
「カラスは白だ」って事ではないのですが、しばしばこの様な事って起こっていると思います。
この様な事って必要だったり意味はあるのでしょうか?私は疑問に思いますね。だって、人間を始め動物には考える為の頭がありますからね。でも、「信じる」って自分の思考停止する部分を補い、何かしらの結果を引き出す為に行われると思います。
例えば、天国や地獄を信じるとかですかね。例えは沢山ありますがね。
でも、信じるってことの先と事実って一致するかと言われてみれば、それは必ずしも一致するってことは無いですよね?
例えば、某宗教団体や何とかセミナーや何とかサロン(フリーランスになりたい人に対しての支援団体)とかって、良く聞いてみると、言ってることが無茶苦茶だったり、学の無い人を騙せても、わかる人には嘘にしかならないような事実っぽい嘘などしかしてませんよね。まあ嘘の行き着く先は結局は虚無や破滅しか無いって事は自明な事でしょう。
その際の「信じる」ってなんでしょうか?
偶像の中にただの幻想(自分にとって都合のいい)でしかないものを「真実だ!」ってねじ曲げて解釈する事でしょうか?
私は「信じる」なら先ずは自分の頭で、論理的にしっかり考えて間違いがないなら「信じる」べきだと思います。
私は某宗教の人と話をした事が沢山ありまして、その人の話では、「自分の宗教が正しい。自分の宗教は自分達の幸福や世界の平和を願ってやってるのだ、絶対に正しいって言える。他は邪教だ、信じれば地獄に落ちる。」って仰っていたので、私は「じゃあ例えば、受験生の高校生が神社に行って、志望校の合格を祈願しに行くことは間違いなのですか?それは一点の曇りもない純粋な心だったとしてもですか?否定すると幸福の為の宗教じゃなくなりますよ?」と言うと、相手は黙ってました。自分が間違えているから答えれないってことでしょう。
私はその時、相手の人は嘘つきの詐欺師なのだなって思いました。本当はこの宗教は幸福なんて願ってもいない。ただ自分達の都合のいいことしか言えない教義にもならない便所の落書きと同じレベルだって思いました。
宗教は理性的に人の幸福を追求するためのものだと私は認識していたのですが、彼等にとってはどうやら違ったみたいです。
ここで、その宗教の批判はしてますが、ちゃんとやってる人も知っていますので(別の宗教ですが)一概に私は否定するつもりはありません。それに何の宗教を信じるかは自由ですし、一方的に否定されることは可笑しいと思います。しかし、他者を愚弄や破滅させる宗教はダメだと思います。
別に宗教に限った話でもなく、前述したようなセミナーやサロンについても同様です。こうしたものに引っ掛からないようにするには、自分の救いを訳のわからない他者に託そうとせず、自分の力や身近な大切な人達と乗り越える様に努力することが一番かと思います。下らないサロンや宗教に大事な時間を使ったり、お金を払うよりかは、大切な人達とご飯を食べに行ったり、試練を乗り越える為の勉強や努力をする方が良いかと思います。
自分の幸福は自分か大切な人達しか
願ってくれないです。逆もしかりです。
恐らく、どこまで考えても真実と一致することは無いでしょうが(どこまでも幻想でしかない)、しかし、どうせなら少しでも真実に近づいたって方がいいですよね。
それに、
嘘つきに未来を変えたり、
人を幸福にする力は無いです。
ーーーーおしまいーーーー
あ、プリン🍮食べたい…😧