市場と海について
私たちは否応なく市場の中で生きている。市場で生まれ市場で生き市場で人生を終える。それなのに市場についてその本質を知る手がかりは少なくとも義務教育や高等教育の中には存在しない。
別に市場について何も知らなくとも私たちは生きていける。そのことを現代社会は様々な社会機構を通じて保証してくれている(これを救命胴衣と呼ぼう)。市場という海で溺れることはまずない。普通に生きていればそこそこの生活を得られるように私たちはお膳立てされているわけだ。
しかし市場の正常な状態、異常な状態、なぜ異常であるかの診断、そしてそれぞれの状況下でどういう判断を下すべきかを知らない者は市場という大海原で揉まれて流され続けるだけである。
これは大海原に救命胴衣だけで投げ出されたような状況だ。沈みこそしないものの背丈の波に揉まれ、どちらに泳ごうとも結果が変わらないように感じ、海流によってどこに流されるかも知ることなく、ただ浮かんで神に祈る状態に陥るだろう。
そこに大船が通り掛かったとしたら、大船にしがみついて離れられなくなるに違いない。仮にすぐそこに陸地があったとしても、もしくは大船が座礁に向かっていたとしても、海を知らなければ大海原に投げ出される恐怖から大船にしがみ付いて正しい選択肢を選べなくなるのだ。
海を知らない者は大船に乗ることに躍起になる。なぜなら大海原で唯一身を守ってくれるのは大船だと思っているためだ。しかし無能な航海士が操縦する大船が熟達した船長が操る小舟より安全なことはない。岩礁の海で逆らえない大海流に流されている大船が良好な海域を航行する小舟より安全なことはない。何よりも大船の目的地と自分の目的地が一致しているとは限らない。
海を自由自在に航行する人を見た時、海を知らない者には
「それは運が良いだけだ」
「いつかきっと難破する」
「船が転覆したら助からない」
といった考えしか浮かばない。
しかし現実の海はランダムではない。海流・海峡・天候・季節を理解し、船の操縦技術に熟知すれば海は途端に安全で制御可能なものになる。だからこそ現実の海には小舟で海を自由に航行する者や、大船を追い風に乗せられる船長がいる。市場も同じだ。
市場を知らないものにとって市場はあたかもランダムに価値を創出、移転、破壊しているように思える。そしてランダムで不確実で気まぐれな市場で生き残る術は(いつ沈むかわからない)遠くに行ける船を作ることではなく、どんな波がきても溺れない強力な救命胴衣を用意することに思えてくる。私たちは高等教育を受けた証明、互換可能なスキルの獲得、大企業での実務経験、様々な保険、世界分散投資を通じて救命胴衣をどんどん大きくしていく。台風がきてもこれで安心だ。しかし世界最強の救命胴衣は救命胴衣にすぎない。海流と波に流されるだけであることに変わりはない。
繰り返すが市場と価値について知る「必要」はない。救命胴衣は社会が用意してくれているし、とりあえず大船に乗っておけば大きなミスはないだろう。
しかし自らの人生において、安全に、遠くに、自由に行きたくば大船に乗ることよりも、海についての洞察を深めるべきだろう。
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